【江戸幕府300藩】丸岡藩の家紋は有馬家の「五瓜に六つ剣唐花・有馬瓜」|藩政改革成功により明治維新まで安定

「丸岡藩」は越前国に存在していた藩で、一度は藩主が酒好きにより改易されますが、有馬家が入封したことにより安定的な藩政を保った穏やかな藩です。なんと1人で50年もの間藩主を務めた者までいるようなのです。

今回は、「丸岡藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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丸岡藩ってどんな藩だったの?

丸岡藩の基礎情報

石高 5万石
旧国 越前(福井県)
居城 丸岡城(坂井市)
藩主 本多家・有馬家
家紋名 五瓜に六つ剣唐花・有馬瓜
江戸城控間 帝鑑間
城主
爵位 子爵

丸岡藩の歴代藩主2家

本多家▶︎有馬家

丸岡藩は2つの家によって支配されていました。

丸岡藩の藩主の変移

  • 初代藩主……本多成重 
  • 最後の藩主…有馬道純

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藩政改革を成功させ安定した丸岡藩

丸岡藩は、越前国坂井郡(現在の福井県坂井市)に存在し、藩庁を丸岡城に置いていました。立藩した本多家が改易となったことで入封した有馬家によって8代にわたり支配されます。中には50年もの間藩主を務めた者もいました。

丸岡藩立藩と所領の歴史

丸岡藩の領地は、もともと福井藩の一部で本多成重が所有していました。この人物が後に丸岡藩初代藩主となるわけですが、父は「鬼作左」の異名をとった徳川寵臣の重次でした。

福井藩の2代藩主であった松平忠直が大分に流罪となると、幕府は丸岡の地を所有していた成重に4万6,000石を加増して独立され、そこで丸岡藩が立藩しました。

丸岡藩藩主・本多家の時代

本多家はその後4代にわたり丸岡藩を支配し、検地や城下町の整備・新江用水の新設など藩の基盤作りに尽力します。しかし本多家の最終藩主・重益が重度の酒好きな上無能で、更には家臣の間で内紛が起こったことにより改易となりました。

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有馬家による丸岡藩再立藩

本多家に代わりキリシタン大名で有名な有馬家の有馬晴信のひ孫・清純が越後国糸魚川藩から5万石で入封したことにより、丸岡藩は再度立藩します。

有馬家の歴代藩主は幕府の要職に就くものが多く、若年寄や老中に就任しました。特に有馬家の5代目藩主・誉純は50年という長い期間にわたり藩主を務め、この間に藩政改革を行って藩を安定させました。

やがて廃藩置県となると丸岡藩は廃藩し、最終藩主・道純は東京へと移住しました。

丸岡城は「日本の歴史公園百選」に選定

丸岡藩の藩庁であった丸岡城とその周辺は、日本庭園式公園の「霞ヶ城公園」として整備されており、歴史的・文化的資源を有効に活用している公園として、「日本の歴史公園百選」に選ばれています。

また、春になると辺り一面に桜の花が咲き誇り幻想的な景色を作ります。その景色が賞賛され、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。

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丸岡藩の家紋は有馬家の「五瓜に六つ剣唐花・有馬瓜」

木瓜とは中国で官服などに付いていた文様が、日本に伝来し社殿の御廉に用いられるようになったものが文様化したものです。木瓜は子孫繁栄を表し、縁起のよいものとされてきました。 五大紋の一つでもあり、北陸地方や東北地方で多く見られます。家紋として取り入れた家は多く、様々な種類の木瓜紋が考案されました。 シンプルな木瓜をベースに、剣と合わせた剣木瓜、丸に木瓜、庵の中に入れた庵木瓜、縦に描いた立ち木瓜、菱形をした木瓜菱などバリエーションは豊富です。 公家では徳大寺家、武家では新撰組の沖田総司や佐倉藩の堀田氏、岡田藩の伊東氏、出羽の遊佐氏などが使用しています。

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まとめ

「丸岡藩」は本多家が改易され家代わりとなるものの、入封した有馬家の努力によって安定的な藩政を保った穏やかな藩でした。使用家紋には「木瓜紋」を用いており、あらゆる戦国武将も使用した人気の家紋ですので、是非あわせてチェックしてみてくださいね。

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