【江戸幕府300藩】岩村田藩の家紋は内藤家の「下がり藤」|幕府ゆかりの内藤家7代が支配

内藤家」はいくつかの藩を支配した幕府ゆかりの家です。そんな内藤家が統治していた藩の一つに「岩村田藩」があります。現在の長野県佐久市に存在していた藩で、7代にわたり内藤家が統治していました。

今回は、「岩村田藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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岩村田藩ってどんな藩だったの?

引用:城とか陵墓とか

岩村田藩の基礎情報

石高 1万6,000石
旧国 信濃(長野県)
居城 岩村田城(佐久市)
藩主 内藤家
家紋名 下がり藤
江戸城控間 雁間
城主格
爵位 子爵

岩村田藩の歴代藩主

▶︎内藤家のみ◀︎

岩村田藩は、7代にわたり内藤家に支配され続けていました。

岩村田藩の藩主の変移

  • 初代藩主……内藤正友 
  • 最後の藩主…内藤正誠

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7代の内藤家により支配された岩村田藩

岩村田藩は、信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、藩庁を岩村田城に置いていました。

岩村田藩の立藩

岩村田藩は、赤沼藩の藩主であった内藤正友が加増される形で立藩しました。そのまま7代にわたり内藤家が支配することとなります。立藩当初は1万6,000石でしたが、2代目藩主・正敬の時代には3男に1,000石を分与したことで1万5,000石となります。

また、1万石が摂津国・河内国内の地に一時移封されますが、再度元の地に戻されるということもありました。所領の場所が何度か変わることがありましたが、比較的安定的に内藤家が支配し続けました。

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岩村田藩主・内藤家は幕府ゆかりの家

7代にわたり藩主を務めた内藤家は、幕府ゆかりの家でもありました。天保の改革で知られる水野忠邦は、6代藩主・正縄の兄で、そのような縁から内藤家も奏者番や寺社奉行といった幕府の要職へと登用されたのでした。

しかし、幕府ゆかりの家でありながらも幕末期には新政府側に与し、戊辰戦争時には北越戦争や宇都宮城の戦いに出兵しました。

内藤家の支配による岩村田藩に秀でた歴史はなく、廃藩置県を迎えると岩村田県を経て長野県に編入となりました。ちなみに、岩村田藩の藩庁は立藩当初から岩村田陣屋で、後期になると岩村田城の築城計画がありましたが未完成のまま廃藩となってしまったのでした。

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岩村田藩の家紋は内藤家の「下がり藤」

藤はマメ科のつる性落葉木本で、淡い紫色の花を咲かせ華やかな藤棚を作ります。古くから観賞用の花として親しまれ、繁殖力の強さから、めでだいとされる縁起の良い植物です。 藤原氏が藤紋を用いたことで武家や庶民の家紋にも使用され、江戸時代には幕臣約160の家紋となったほど代表的な家紋です。石田三成や大久保利通も藤紋を使用していました。 使用者は、公家では一条家、二条家、九条家、武家では本願寺氏、大久保氏、片倉氏、黒田氏、新庄氏です。また、「藤」の付く名字にちなんで安藤氏、加藤氏、内藤氏、藤井氏、佐藤氏なども使用しています。 特に藤の葉を左右に伸ばし円型に描く藤丸や、十字形の八つ藤が人気となっていました。

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まとめ

岩村田藩」は、幕府にゆかりのある内藤家によって7代にわたり支配された藩でした。特別な歴史的出来事があった藩ではありませんでしたが、安定的に統治したのでした。藩庁を陣屋から城に移そうと、建築計画が途中で終わってしまったのは残念ですね。長野県にはこれ以外にも複数の藩が存在していましたので、合わせてチェックしてみてくださいね。

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