沖田畷の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.18

九州の覇権争いの決着を着けたとも言われている『沖田畷の戦い』。 

1584年、「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信と薩摩を中心に南九州を治めていた一大勢力島津家久と有馬晴信が肥前島原半島(現在の長崎県)で激突した戦です。

今回はそんな『沖田畷の戦い』を家紋と共に見ていきます。 

●1分で分かる沖田畷の戦い

九州北部を平定していた龍造寺隆信でしたが、その平定をよく思わない人物も数多くいました。

そのうちの一人が有馬晴信です。 

龍造寺隆信に公然と反旗を翻した有馬晴信が島津家に援助を求めます。 

そして、有馬晴信を討伐したい龍造寺隆信と有馬晴信を援助した島津家の島津家久が、有馬晴信と連合軍を組んで肥前島原半島激突。 

龍造寺軍2万5千人に対し、有馬晴信・島津家久連合軍はわずかに9千人でした。 

しかし、戦いは地形の戦術を活かした有馬晴信・島津家久連合軍が見事に勝利を治めました。 

そしてその結果、九州の覇権は島津家が握っていくことになります。 

 ▪︎北九州で一気に勢力を広げた龍造寺隆信 

九州地方の覇権を争っていたのは北部の龍造寺隆信、東部の大友宗麟、南部の島津義久の”3強”でした。 

そんな中、龍造寺隆信は肥前国(現在の佐賀県)を中心に勢力を拡大していきます。 

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北九州で一気に勢力を広げた龍造寺隆信

九州地方の覇権を争っていたのは北部の龍造寺隆信、東部の大友宗麟、南部の島津義久の”3強”でした。 

そんな中、龍造寺隆信は肥前国(現在の佐賀県)を中心に勢力を拡大していきます。 

東の大友宗麟を跳ねのける隆信

そして、1570年の今山の戦いで龍造寺隆信は大友宗麟を破ると勢いそのままに肥後半国、筑前、筑後、豊前の一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を領土に治めます。 

 この戦いに敗れた大友宗麟はその後凋落に一途を辿り、1578年の耳川の戦いで島津義久に敗れ、大友宗麟は九州の覇権争いから脱落しました。 

次は西の島津軍

大友宗麟が凋落したことにより、九州の覇権争いは龍造寺家と島津家の”2強”の争いになります。 

龍造寺家は勢力を拡大し続け、肥後北部を制圧し手中に治めました。そして、龍造寺隆信は「五州二島の太守」として名を広めます。 

九州地方を制圧するための残りの勢力は島津家のみでした。 

沖田畷の戦いへ

龍造寺家の支配に反旗を翻したのが有馬晴信でした。 

有馬晴信は龍造寺家を背信し、島津家に援助を求めます。この有馬晴信の動きを知った龍造寺隆信は有馬晴信の討伐に向かい、龍王崎から出陣し、島原半島北部の神代に上陸しました。 

その軍勢はおよそ2万5千と言われています。  

援助を求められた島津家の当主・島津義久でしたが、当時は肥後の平定のため主力部隊の多くを八代に派遣していました。 

そのため、有馬晴信のいる島原に主力部隊を派遣してしまうと、勢力が衰えていた大友宗麟が再興する恐れがあっていたため大軍を送ることができませんでした。 

そして、島津義久は弟である島津家久を総大将とした5,000にも満たない軍勢を派遣します。 

島原に到着した島津家久はすぐに龍造寺軍を打ち破る策略を巡らせます。 

そして、島原北部の湿地帯である沖田畷を決戦の地と定めました。この沖田畷は広大な湿地に加え、防衛地点である森岳城までの道幅が狭いという特徴もありました。 

こうした地形をさらに活かすため、島津家久は森岳城までの道を遮断し、柵を築いて守りを固める戦法を取りました。 

徹底的に守りを固めた島津軍に対して、龍造寺軍は島津軍の軍勢が圧倒的に少ないこと”のみ”を確認し、数の力で中央突破する作戦を立てました。 

大軍を生かせない龍造寺隆信

龍造寺軍(武将) 

龍造寺隆信、鍋島直茂 

 有馬・島津連合軍(武将) 

有馬晴信、島津家久、頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智 

戦が始まると、島津軍は龍造寺軍をおびき寄せる作戦を立てて、龍造寺軍の前線を狭い地形に追い込むと待ち構えていた弓兵などが迎撃して、龍造寺軍の前線を崩していきます。 

前線を援護しようと、龍造寺軍の二陣が前進しますが、湿地帯に足を取られてしまい思うように動けずにいました。 

そのため、2万5千の大軍を活かすことができない龍造寺軍は混乱の一途を辿りました。 

  島津軍(戦力約8,000人) 龍造寺軍(戦力約60,000人)
大将 島津家久 龍造寺隆信龍造寺隆信
家紋

 

丸に十の字

家紋日足紋
家紋解説 家紋の由来は諸説あり、二匹の龍を描いたもの、島津家の初代当主である忠久が源頼朝から2本の箸を取って十字にしたもの、災いから守るために十字を切ったとするものなどがあります。 

日足紋は太陽を中心に描き、その周りを放射状の日光を描いたものとされています。そのため、太陽をモチーフとした家紋と考えられています。龍造寺家をはじめ、北九州の武将で多く使われているのが特徴です。 

身動きが取れない龍造寺軍を一気に攻める島津家久

戦局は圧倒的に有馬・島津連合軍の優勢となっていき、沖田畷の狭い道に誘い込んだ有馬・島津連合軍が、次々と龍造寺軍に深手を与えていきます。 

そして、有馬・島津連合軍によって深手を負った龍造寺軍の前線部隊とその状況を知らない龍造寺軍の後方部隊とが狭い沖田畷に密集してしまい、身動きが取れなくなってしまいました。 

この機を逃すまいと有馬・島津連合軍は総攻撃を仕掛けます。 

総崩れとなった隆造寺隆信

開戦から6時間後、散り散りになっていく龍造寺軍を見て総大将の隆造寺隆信は撤退を始めます。

しかし、追撃をしてきた有馬・島津連合軍の武将である川上忠堅に追いつかれ首を撥ねられてしまいました。

こうして「沖田畷の戦い」は決着の時を迎え、有馬・島津連合軍の大勝利となりました。

この戦に勝利した島津家はその後、九州地方での勢力を拡大していきました。

まとめ

いかがでしたか? 

隆造寺隆信に油断がなければ、歴史はまた少し違ったものになっていたかもしれません。 

そして、島津家久の計略が見事に勝利に導き、この戦の後の島津家の繁栄に貢献することになりました。 

以上、九州の覇権をかけた戦『沖田畷の戦い』でした。 

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