小牧・長久手の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.19

織田信長の死後、羽柴秀吉は「山崎の戦い」で明智光秀を滅ぼし、清洲会議で織田家家臣の中でも発言力を強め、そして敵対した柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で滅ぼします。 

確実に勢力を強めていく秀吉に対して、警戒感を抱いたのが織田信長の次男である信雄でした。

信雄は三河の将軍、徳川家康に援助を求め、秀吉との対決姿勢を強めます。 

今回はそんな秀吉vs信雄・家康連合軍の戦いである『小牧・長久手の戦い』を家紋と共にみていきます。 

●1分で分かる小牧・長久手の戦い

清洲会議、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉は織田信長の実質的な後継者として道を進み始めました。そんな秀吉を見た、織田家の次男・信雄は次第に秀吉と敵対関係となっていきます。

信雄は三河の将軍である徳川家康に援助を求めると、家康は主君を助けるという名目の元、信雄と共に連合軍を組んで秀吉と相対します。

約1年に渡り、尾張の小牧城、犬山城、美濃、伊勢、紀伊でも合戦が起きた戦いは最終的には秀吉と信雄・家康の間で講和が結ばれます。

そして講和の結果、秀吉は織田家の影響力を衰退させ天下人の道へさらに加速します。

一方で家康も秀吉に自身を認めさせる結果となり、後に天下人となった秀吉のNo.2の座を維持しただけでなく、自身が天下を取るための足がかりとなった結果になりました。

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天下統一を目指す秀吉

1583年、秀吉は敵対していた柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で撃破すると、柴田勝家が所有していた領土を家臣に分け与えます。 そして、自身は大阪を本拠地として大阪城の建築に乗り出します。

さらに、秀吉は安土城の城主であった織田家の次男である信雄を安土城から追い出し、自身の影響力を示すと共に天下統一への道を進んでいました。 

織田信雄は家康を味方に

秀吉の勢力拡大に織田信雄は三河の徳川家康に援助を求めます。家康は織田家の忠誠を示すために、信雄と同盟を結び、秀吉と敵対する意思を示します。そして、1584年3月家康は1万5千の兵を率いて清洲城へと入りました。 

羽黒の戦いで家康軍の酒井忠次が秀吉軍の森長可を奇襲攻撃

家康軍が清洲城へ入ったその日、織田家の家臣であった池田恒興が羽柴秀吉に寝返り、犬山城を占拠してしまいます。家康はこの動きに対処するため、すぐさま軍を動かし追撃を計ります。

その後、池田恒興と共同戦線を組む森長可が犬山城に入り体勢を整えようとしますが、この動きを徳川軍に読まれてしまいます。

森長可が犬山城に入ったその日の夜、家康軍の酒井忠次が5,000人の兵を引き連れて、出陣すると翌朝に森長可を奇襲します。

森軍勢はこの動きに対処できず、敗走することになりました。 

小牧・長久手の戦いへ

家康軍は目の前の池田恒興・森長可がいなくなったことで、1584年3月18日小牧山城に入りました。

そして、この動きを見た羽柴秀吉は3万人の兵を引き連れて大阪を出陣します。

秀吉軍が小牧山まで到着する間、家康軍は小牧山城周辺に砦を建築し、守りを固めました。

大阪を出発した秀吉軍は3月27日、小山城のある犬山に到着。ついに秀吉軍と信雄・家康軍が相対しました。 

秀吉軍(武将)

羽柴秀吉、羽柴秀次、池田恒興、森長可、堀秀政 

信雄・家康軍(武将)

織田信雄、徳川家康 

家康の本拠地・三河を攻撃する森長可

犬山でのにらみ合いが続くと、秀吉軍は4月6日に森長可を将とした部隊を編成し、家康の本拠地である三河を攻撃するために出発します。その軍勢はおよそ2万でした。

  織田・徳川軍 豊臣軍
大将 織田信雄

徳川家康
豊臣秀吉

森長可
家紋    
家紋解説

フタバアオイをモチーフにした「葵の御紋」を使用していました。家紋の由来は京都にある加茂神社の神紋です。徳川家康は、1603年に江戸幕府を開いて天下を統一すると葵の家紋を他家が使用することを禁止します。そのため、徳川家の家紋に権威を付けることに成功しました。 

桐紋という家紋を用いており、「五三桐」、「五七桐」などが有名です。古来は天皇家に使われていた家紋でしたが、武家社会に広がっていき豊臣秀吉が利用しました。今日では日本政府が使用している紋章でもあります。 

素早い判断で森長可を打ち破った家康

森長可の動きを察した家康はすぐに軍を二手に分け、森軍の討伐に向かいます。4月9日、森軍と家康軍が長久手にて衝突し激しい戦闘になります。戦闘の中、森長可が討ち死にすると森軍の名だたる将も次々に討ち取られ、合戦は徳川軍の勝利に終わりました。 

敗れた家康は信雄と仲を戻す

その後、戦いは各地で半年間に渡って進むと、秀吉は信雄のもとへ使者を送り講和を申ししれます。条件は伊賀と伊勢半国の割譲でした。信雄はこの条件を受諾し、秀吉と信雄単独での講和が実現しました。 

戦う理由がなくなった家康

秀吉と信雄が講和を結んだため、戦への大義名分がなくなった家康は11月に三河へ帰国します。その後、家康も秀吉との間に講和を結びます。講和から2年後の1586年に家康は秀吉に上洛し、秀吉に従う道を選びました。 

まとめ

いかがでしたか?戦術で打ち勝った家康軍でしたが、政治的には秀吉の勝利とも言われています。互いにどんな思惑があったのか気になるところですね。以上、『小牧・長久手の戦い』でした。 

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