かつて藩があった時代には、「藩校」という学校のような施設を設立したことろが複数ありましたが、その中でも2つの藩校を設立し、文学大名と言われた人物が藩主を務めていた「神戸(かんべ)藩」という藩がありました。
今回は、「神戸藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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神戸藩ってどんな藩だったの?
神戸藩の基礎情報
石高 | 1万5,000石 |
旧国 | 伊勢(三重県) |
居城 | 神戸城(鈴鹿市) |
藩主 | 一柳家~本多家の3家 |
家紋名 | 丸に右離れ立ち葵 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
神戸藩の歴代藩主3家
神戸藩は3つの家によって支配されていました。
神戸藩の藩主の変移
- 初代藩主……一柳直盛
- 最後の藩主…本多忠貫
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藩校設立など学問を推奨した本多家が支配した神戸藩
神戸藩は、伊勢国河曲(現在の三重県鈴鹿市)に存在し、藩庁を神戸城に置いていました。一度は天領となった時期もありましたが、最終的に本多家が入封すると7代にわたり支配しました。
本多家の初代藩主は文人大名としても有名で、2つの藩校を設立したほか、茶道にも詳しい人物でした。また5代目藩主は倹約令を徹底するなどし、藩の財政は安定的なものでした。
神戸藩の立藩と天領期間
神戸藩が成立する前、神戸城は滝川利という人物が城主を務めていました。しかし関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したため改易となり、それに代わり尾張国黒田城の城主を務めていた一柳直盛が5万石で入封し、神戸藩が立藩しました。
それから35年、直盛は加増される形で伊予国西条藩に移封となり、所領は一時天領となります。藩庁であった神戸城に関しても、主要な建築物は破却となりました。
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石川家による神戸藩再立藩
一度は天領となった神戸藩ですが、やがて膳所藩主石川忠総の次男である総長が、父の遺領から神戸周辺の1万石を分与され、神戸藩が再度立藩となりました。
3代にわたり支配した石川家ですが常盤国下館藩に移封となり、それに代わって河内国西代藩から本多家が入封します。
本多家の神戸藩支配
本多家の初代藩主となった忠統で、更に5万石を加増され若年寄に就任したため城を持つことが許されました。ここで、初代藩主・一柳家が移封となり天領となった際に破却された神戸城の再興が始まります。
忠統は文人大名として有名だったほか、城内に「三教堂」、江戸藩邸に「成草館」という藩校をそれぞれ設立し、また茶道にも詳しく茶人では宗範を名乗っていました。
5代藩主・忠升は倹約令を出した人物ですが、自身も節食するほどの倹約家でした。藩校を改革して古学から朱子学に変更し、忠統の時代に設立された藩校の名前を城内のものは「教倫堂」、江戸藩邸のものは「進徳堂」と改めました。
やがて廃藩置県を迎えると神戸藩は廃藩となり、安濃津県▶︎三重県へと変遷していきました。
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神戸藩の家紋は本多家の「丸に右離れ立ち葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「神戸藩」は一度は天領となった時期もありましたが、本多家が入封したことにより安定的に廃藩置県まで存続したのでした。藩校を2つも設立すしたり倹約令を徹底するなど、本多家の歴代藩主たちは藩作りに尽力していたことがわかりましたね。
藩によっては藩主が怠慢なため財政難に苦しんだところもあるので、そのようなポイントに着目してみるにも面白いですよ。
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