徳川家康は歴史上の人物の中で有名中の有名ですが、誕生の地には「岡崎藩」という藩が置かれていました。徳川家との関わりが強く、歴代藩主は全員譜代大名だったという特徴があります。
今回は、「岡崎藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
スポンサードリンク
目次
|
|
岡崎藩ってどんな藩だったの?
岡崎藩の基礎情報
石高 | 5万石 |
旧国 | 三河(愛知県) |
居城 | 岡崎城(岡崎市) |
藩主 | 本多家~本多家の4家 |
家紋名 | 丸に右離れ立ち葵 |
江戸城控間 | 溜間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
岡崎藩の歴代藩主4家
岡崎藩は4つの家によって支配されていました。
岡崎藩の藩主の変移
- 初代藩主……本多康重
- 最後の藩主…本多忠直
スポンサードリンク
歴代藩主の全てが譜代大名!家康誕生の地・岡崎藩
岡崎藩は、三河国(現在の愛知県東部)に存在し、藩庁を岡崎城に置いていました。徳川家康誕生の地ということで最重要しされ、歴代藩主全てが譜代大名という特徴もありました。
立藩前の岡崎とは?
岡崎には後の岡崎藩の藩庁となる「岡崎城」があり、徳川家康が誕生した地であり三河における徳川家にとって最重要拠点とも言える場所でした。
岡崎藩の正式な立藩前、小田原征伐後に家康が関八州に移封されると、豊臣家の家臣・田中吉政が10万石で入封しました。やがて関ヶ原の戦いが起こると功績を讃えされ筑波国柳河藩に加増移封となりました。
スポンサードリンク
岡崎藩の正式な立藩
岡崎藩の初代藩主となったのは本多家の本多康重で、上野国白井藩より5万石で入封したことにより正式な立藩となりました。康重は家康からの信頼が厚かったことで知られています。
検地や城下町の整備・東海道の整備など藩の基盤作りに尽力しましたが、岡崎藩は立地条件が悪かったため、細長く入り組んだ城下町となりました。「岡崎27曲」と呼ばれたほど複雑に入り組んでいた岡崎藩の城下町ですが、この特徴的な形は防衛的に良いというメリットもありました。
歴代藩主とその歴史
本多家に次いで藩主となったのは水野家です。検地や新田開発・支配機構などの整備が進められましたが、岡崎藩は徳川家と繋がりがあり重要視されていたため、歴代藩主は幕府の要職に就くものが多く、そのため出費が重なっていました。
それゆえ岡崎藩の財政は逼迫し、さらには天災によって藩政は悪化しました。藩政改革を行うも失敗に終わり、水野家は移封となりました。
この後、松平(松井)家が変わってん入封しますが特段功績はなく、松平康福の1代で終わりとなります。しかし、岡崎藩の歴代藩主は家康の信頼があったものや、その全てが譜代大名という特徴がありました。
スポンサードリンク
最終藩主・本多家による岡崎藩支配
岡崎藩の最終藩主となったのは本多家です。立藩当初の本多家とは違う本多家で、徳川四天王の本多忠勝の系譜です。本多家の歴代藩主は藩政改革に取り組み、一時的には安定しますが天保期になると飢饉が続き、一揆が起こるなどして財政難へと陥りました。
しかし綿や三河木綿の栽培に力を入れたり、あらゆる藩政改革を再び行うことで再建に努めます。戊辰戦争の際には新政府側につくも藩論は割れ、藩士の中には旧幕府側に身を投じたものもいました。
スポンサードリンク
岡崎藩の家紋は本多家の「丸に右離れ立ち葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
詳しくはこの記事をチェック!
スポンサードリンク
【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう
まとめ
「岡崎藩」は、家康が誕生した地ということで重要視され、歴代藩主は全て譜代大名という特徴がありました。家康の信頼があったものも多数おり、徳川家にとって大事な藩とされていました。
家紋には徳川家と一部の松平家しか使用することのできなかった「葵紋」が使用されていました。この紋は家紋の中でも貴重で有名なものなので、ぜひ関連記事もチェックしてみてくださいね。
スポンサードリンク
他にもあるぞ!超人気家紋コンテンツ |
|