現在の新潟県である越後国には、8つの藩が存在していました。その中で黒川騒動などが勃発し、厳しい財政下にあった「糸魚川(いといがわ)藩」という藩があります。最終的には松平家が8代にわたり支配し続けましたが、どのような歴史があったのでしょうか?
今回は、「糸魚川藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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糸魚川藩ってどんな藩だったの?
糸魚川藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 越後(新潟県) |
居城 | 糸魚川陣屋(糸魚川市) |
藩主 | 有馬家~松平(越前)家の3家 |
家紋名 | 丸に三つ葵 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
糸魚川藩の歴代藩主3家
糸魚川藩は3つの家によって支配されていました。
糸魚川藩の藩主の変移
- 初代藩主……有馬清純
- 最後の藩主…松平直静
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黒川騒動が起きた糸魚川藩
糸魚川藩は、越後国(現在の新潟県糸魚川市)に存在し、藩庁を糸魚川陣屋に置いていました。3つの家が藩主を務めましたが、初代藩主の有馬家・2代藩主の本多家ともに1代のみの統治で、最終藩主となる松平越前家が入封すると8代にわたり支配しました。
糸魚川藩の立藩と藩主3家
糸魚川藩は、外様大名である有馬清純が5万石を与えられる形で立藩したものの、古くから軍事上の要衝であったことから、その後本多家を経て親藩である松平越前家が藩主となりました。
本多家は譜代の本多助芳が藩主となりますが、わずか1代で家変わりとなりました。有馬家と本多家の間には一度廃藩となり、その所領は天領となっていました。
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藩主・松平家と財政悪化の糸魚川藩
最終藩主となった松平越前家は、維新まで8代にわたり糸魚川藩を支配することとなりますが、享保末期から財政が悪化し始めます。小さい藩ゆえに元々安定的な藩ではありませんでしたが、そこに天災が度重なり、藩政は絶えず逼迫していました。
藩政を再建しようと重臣により改革が行われましたが、農民からの搾取を基本としたものだったため失敗に終わり、また御用金(ごようきん)調達により農民たちの怒りは頂点に達し「黒川騒動」が起こったのでした。
その後も糸魚川藩の藩政は向上することもなく、林騒動や二歩金騒動が起こり、やがて廃藩置県を迎えたのでした。
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糸魚川藩の家紋は松平(越前)家の「丸に三つ葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「糸魚川藩」は、松平越前家が入封するとそこから8代にわたし支配することとなりましたが、小藩ゆえに財政は厳しく、更に藩政改革にも失敗し状況は厳しいものでした。
新潟県には他に7つの藩が存在しており、こちらのサイトではそれぞれご紹介していますので、是非チェックしてみてくださいね。
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