【江戸幕府300藩】与板藩の家紋は井伊家の「井伊橘・彦根橘」|譜代の名門・井伊家が支配した長岡藩の支藩

新潟県の長岡市では毎年壮大な花火大会が開かれることで有名ですが、かつてこの地域には「与板藩」という藩がありまいした。長岡藩の支藩として存在した与板藩には、どのような歴史があったのでしょうか?

今回は、「与板藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。

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与板藩ってどんな藩だったの?

与板藩の基礎情報

石高 2万石
旧国 越後(新潟県)
居城 与板城(長岡市)
藩主 牧野家・井伊家
家紋名 井伊橘・彦根橘
江戸城控間 帝鑑間
城主格
爵位 子爵

与板藩の歴代藩主の2家

牧野家▶︎井伊家

与板藩は・つの家によって支配されていました。

与板藩の藩主の変移

  • 初代藩主……牧野康成
  • 最後の藩主…井伊直安

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名門の譜代・井伊家が支配した与板藩

引用:城郭放浪記

与板藩は、越後国三島郡(現在の新潟県長岡市)に存在し、藩庁を与板城に置いていました。藩主は牧野家と名門の譜代家と言われた井伊家の2家でした。

長岡藩の支藩として与板藩立藩

与板藩は、長岡藩の初代藩主となった牧野忠成の次男・康成が1万石を分与される形で、長岡藩の支藩として立藩しました。藩庁として陣屋を設けたものの、康成は23年もの間陣屋に移ることはありませんでした。

牧野家は与板藩を3代にわたり支配しつづけましたが、立藩から68年後、牧野家は信濃国小諸藩へ転封されます。与板の所領は一旦天領となりました。

井伊家による与板藩の統治

初代藩主である牧野家が転封になり、代わって井伊家が2万石で入封しました。藩庁となる与板城は7代藩主・直暉の時代に建設されます。

井伊家は名門の譜代家でありながら、戊辰戦争の際には新政府側に恭順し各地を転戦しました。また、奥羽越列藩同盟軍との戦いにおいては与板周辺での攻戦を制し、城や城下町を守ることに成功しました。

Q:奥羽越列藩同盟軍とは? A:戊辰戦争に際して奥羽・北越の諸藩が官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟のこと。

戊辰戦争での功績が認められた与板藩は、明治政府より賞金として2,000両が給与されました。最終藩主の井伊直安は版籍奉還により知藩事となり、華族となります。

やがて1871年の廃藩置県を迎えると与板県▶︎柏崎県▶︎新潟県へと変遷していきました。

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藩庁・与板城は今・・・

与板藩の藩庁であった与板城は戦火により焼失しましたが、切手門だけは焼失を免れました。現在は遺構は存在しませんが、石碑が設立され冠木門が復元されています。また、跡地には与板ふれあい交流センターや住宅街となっています。

与板藩の家紋は井伊家の「井伊橘・彦根橘」

橘はミカン科の常緑小高木で、「右近の橘、左近の桜」と称される日本固有の植物です。小さく香りの強い実を付け、桃の節句には桃と共に飾られます。この風習は奈良時代頃から始まったようです。 家紋としては平安時代末期頃から用いられるようになり、特に西日本で多く用いられました。橘紋は、十大家紋の一つでもある代表的な家紋です。 橘一族の家々や、武家の井伊氏、薬師寺氏、土田氏、小寺氏、安芸氏などが使用していました。井伊氏が使用していたものは井伊橘、薬師寺氏のものは薬師寺橘と呼ばれています。 他に、一つの橘の花をモチーフにしたシンプルな橘や、二つの橘を使った抱き橘、沢山の花を使った花橘などがあります。

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まとめ

「与板藩」は、名門とも言われた譜代家の井伊家によって代々支配され、維新まで存続した比較的安定的な藩でした。越後国には他に7つの藩がありましたので、是非あわせて他の藩についてもチェックしてみてくださいね。

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