現在の新潟県はかつて「越後国」と呼ばれていましたが、この地方には8つほどの藩が存在していました。その中で代金や天明義民事件が起きて藩政の悪かった「椎谷(しいや)藩」という藩があります。
今回は、「椎谷藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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椎谷藩ってどんな藩だったの?
引用:asahinet
椎谷藩の基礎情報
石高 | 万石 |
旧国 | 越後(新潟県) |
居城 | 椎谷陣屋(柏崎市) |
藩主 | 堀家 |
家紋名 | 釘抜き |
江戸城控間 | 菊間広縁 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
椎谷藩の歴代藩主
椎谷藩は、13代にわたり掘家に支配され続けていました。
椎谷藩の藩主の変移
- 初代藩主……掘直宥
- 最後の藩主…掘之美
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天明義民事件が起きた椎谷藩
椎谷藩は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に存在し、藩庁を椎谷陣屋に置いていました。藩主は掘家で計13代にわたり支配しましたが、藩政は大飢饉が起きるなどして厳しいものでした。
堀家による椎谷藩の立藩
椎谷藩は13代の堀家により越後国に存続した藩ですが、その藩祖となったのは掘直政の4男・掘直之でした。大坂の陣による功績が認められ、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、陣屋を椎谷に置きました。
正式に椎谷藩が立藩となったのは、4代目藩主の直宥が越後の三郡内(沼垂・三島・蒲原)に1万石を領し、椎谷に居住こたことによります。
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8代藩主・著朝の時代には藩政が逼迫
計13代の堀家が支配した椎谷藩ですが、8代藩主・著朝の時代になると財政が逼迫し始めます。その状況を立て直そうと、著朝は分家筋の直基に命じ領民に対して御用金(ごようきん)や米祖前納金などをさせることとなりますが、天明の大飢饉が発生します。
領民たちは蔵米を競争入札に入れたことを知り、「天明義民事件」が起きたのです。この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、幕府の裁定を仰ぐに至りました。
その後、椎谷藩では藩政改革が行われますが藩は不安定の状況が続き、戊辰戦争の際には新政府川に与したことで水戸藩脱兵から椎谷陣屋に乗り込まれ、周囲が戦場となりました。また、北越戦争の舞台となったことで大きな被害を受けました。
やがて廃藩置県を迎えると椎谷藩は廃藩となり、椎谷県・柏崎県を経て新潟県へと編入したのでした。
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堀家は他にこの藩の藩主も務めていた!
椎谷藩の藩主を13大にわたり務めた堀家ですが、他に「須坂藩」の藩主も務めていました。使用家紋も同じ「釘抜き紋」を用い、椎谷藩と同じ越後国に存在していました。
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椎谷藩の家紋は掘家の「釘抜き」
釘抜きは大工道具の一つで、「九城(くぎ)を抜く」の語呂合わせとして家紋に用いられました。そのため戦いの連勝を祈願して、武士の間をメインにで使用されました。 もともとの大工道具である釘抜きは「座金」と「梃」の2つの道具を合わせて使うものの、家紋上ではそのほとんどが梃が省略された状態のものです。 釘抜き紋には、二つを絡ませた違い釘抜き、重ね合わせた重ね釘抜き、釘の中に梃を入れた木々抜きに梃子、丸の中に変わった形の梃を入れた丸に一梃釘抜きなどがあり、全国的に普及しました。 使用者は、江戸時代では久留米藩の有馬家、飯田藩の堀家などの大名や、武家である一柳氏、太田原氏などです。
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まとめ
「椎谷藩」は堀家によって13代支配され続けた藩ですが、財政が逼迫し始めると大飢饉が起きたり天明義民事件が起こるなどにして荒れた藩政となっていました。
堀家は他にもいくつかの藩主を務めていましたので、そちらも合わせてチェックしてみてくださいね。
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