「松平」という苗字は現代でも存在する苗字ですが、その松平家によって支配されていた藩の一つに「吉井藩」があります。吉井藩は過去に2度も廃藩した藩で、再々立藩という形で松平家が入封しました。
今回は、「吉井藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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吉井藩ってどんな藩だったの?
引用:asahinet
吉井藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 上野(群馬県) |
居城 | 吉井陣屋(高崎市) |
藩主 | 菅沼家~松平(鷹司)家の3家 |
家紋名 | 上野牡丹 |
江戸城控間 | 大廊下 |
格 | 国主 |
爵位 | 子爵 |
吉井藩の歴代藩主3家
吉井藩は3つの家によって支配されていました。
吉井藩の藩主の変移
- 初代藩主……菅沼定利
- 最後の藩主…松平信謹
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2度の廃藩を経て松平家により存続した吉井藩
松平信謹(右) 引用:wikipedia
吉井藩は、上野国多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在し、藩庁を吉井陣屋に置いていました。2度の天領を経て松平鷹司家が入封すると、そこから10代にわたり存続します。しかし幕政は不安定なものでした。
吉井藩の立藩と廃藩・天領に
吉井藩は、小田原征伐後、関東入りしていた家康が譜代の家臣である菅沼定利に2万石与える形で立藩しました。初代藩主となった定利は、検地を行ったり土地を区画整備する町割りを行うなどして幕政の基盤作りに尽力しました。
定利が亡くなると、養嗣子の忠政が2代目藩主となります。忠政は徳川家と関わりがあったことで松平姓を名乗ることができた人物でした。その後美濃加納藩に転封となると、吉井藩は廃藩、幕府直轄の旗本領となりました。
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吉井藩の短すぎる再立藩
菅原家の転封と同時に天領となった吉井藩は、大番頭を務めていた堀田正体により再度立藩となります。しかしそれから16年後の1698年、近江国宮川藩に転封となり、吉井藩は再び天領となりました。
松平鷹司家による再々立藩
2度も天領となった吉井藩ですが、松平鷹司家が入封するとそこから10代にわたり維新まで存続することとなります。小さな藩ではありましたが、国主格の待遇を受けていました。
しかし松平鷹司家の5代目藩主・信成の時代になると石高自体が少なく、幕政は苦しいものとなります。その後も歴代藩主が幕政改革に取り組むも失敗に終わり、財政は潤うことはありませんでした。
戊辰戦争時には松平▶︎吉井に改姓
吉井藩は財政難のまま戊辰戦争を迎え、松平の姓を捨てて吉井姓に改姓しました。そして新政府側に与する形で戸倉へと出兵したのでした。
やがて版籍奉還で知藩事となった最終藩主・信謹は自ら知藩事を辞め、吉井藩は廃藩となりました。その後、岩鼻県▶︎群馬県▶︎熊谷県▶︎群馬県へと変遷していきました。
吉井藩の家紋は松平(鷹司)家の「上野牡丹」
牡丹は中国原産の花で、百花の王として最も高貴な花とされてきました。8世紀頃に日本に伝来し、貴族の筆頭である藤原氏の家紋として用いられて平安貴族に好まれました。 貴族の中では家紋以外にも衣服や牛車の文様としても牡丹紋が使用されていたほどです。やがて摂関家の近衛家や鷹司家の家紋となります。 江戸時代になると武家の間で多く用いられるようになり、摂津多田源氏の一族に多く用いられました。家康の菊紋、葵紋についで威厳のある紋として扱われ、後に使用が限られます。 公家では他に難波氏、武家では秋田氏、津軽氏などが使用者となっています。
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まとめ
「吉井藩」は2度の天領となるも、堀田家や松平鷹司家により再立藩し、なんとか存続していましたが幕政はとても厳しいものでした。藩によってそれぞれの歴史的ストーリーがありますので、是非いろいろな藩をチェックしてみてくださいね。
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