【江戸幕府300藩】湯長谷藩の家紋は内藤家の「下がり藤」|磐城平藩の支藩として立藩

東北地方・北海道エリアには31の藩が存在していましたが、その中でも内藤家によって代々統治され続けてきた「湯長谷(ゆながや)藩」について着目してみました。

湯長谷藩は元々別の藩の藩主をしていた内藤家によって支藩として立藩されたもので、長い間内藤家によって守り続けられてきた藩です。

それでは、「湯長谷藩」を統治し続けた内藤家や統治までの歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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湯長谷藩ってどんな藩だったの?

湯長谷藩の基礎情報

石高 1万5,000石
旧国 陸奥(福島県)
居城 湯長谷陣屋(いわき市)
藩主 内藤(遠山)家
家紋名 下がり藤
江戸城控間 帝鑑間
陣屋
爵位 子爵

湯長谷藩の歴代藩主・家

▶︎内藤家のみ◀︎

藩によってはころころと変わる藩主の家ですが、湯長谷藩においては内藤家のみとなっています。14代の内藤氏によって統治されました。

湯長谷藩の藩主の変移

  • 初代藩主……内藤政亮
  • 最後の藩主…内藤政憲

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磐城平藩の支藩として立藩した湯長谷藩

湯長谷藩は、陸奥国磐城平(いわきたいら)藩の支藩として、内藤家が磐城平藩の藩主だった時代に立藩されました。廃藩置県まで譜代大名である内藤家によって14代継続しました。はじめは藩庁を湯本に置いていたため「湯本藩」と呼ばれていました。湯長谷藩立藩までの流れを詳しく見てみましょう。

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磐城平藩→湯本藩→湯長谷藩になるまで

磐城平藩→湯本藩の立藩

最初の藩庁の名前にちなみ湯本藩という藩名だった湯長谷藩ですが、話を本藩である磐城平(いわきたいら)藩まで遡ってみましょう。磐城平藩は、内藤政長が上総国から磐城平藩7万石の藩主として入封することから始まります。

そして磐城平藩2代藩主・内藤政忠興は、次男である内藤政亮に所領の増加分2万石を分け与えたいと申し出ます。それが1666年の出来事でしたが、4年経った1670年にようやく許可が下りるのです。希望の2万石ではなく1万石でしたが、藩庁を湯本に起き、初代藩主を内藤政亮として「湯本藩」が立藩しました。

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湯本藩→湯長谷藩への変移

初代藩主となった内藤政亮は、1676年に湯長谷城を築城し藩庁を湯本から湯長谷に移動させます。ここで名前が「湯長谷藩」と改されました。

城下町を発展されようと建設や整備に力を入れ、1680年に内藤忠勝乱心事件を食い止めたことで功績が讃えられ、丹波国に2,000石の増加、1687年には大阪定番を命じられ河内国に3,000石が与えられ、合計1万5,000石を所有することとなりました。

初代藩主・内藤政亮以降も内藤家が統治

初代藩主である内藤政亮は高く評価され、その後この世を去る69歳まで藩主として活躍しました。そしてそれ以降も内藤家によって代々統治され続け、湯長谷藩は政亮を含め14代の内藤氏によって明治時代まで継続しました。

途中1747年には百姓一揆勃発の責任を問われ日向延丘に転封されるといった困難にも見舞われますが、湯長谷藩は安堵され事なきを得たのでした。

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湯長谷藩の家紋は内藤家の「下がり藤」

藤はマメ科のつる性落葉木本で、淡い紫色の花を咲かせ華やかな藤棚を作ります。古くから観賞用の花として親しまれ、繁殖力の強さから、めでだいとされる縁起の良い植物です。 藤原氏が藤紋を用いたことで武家や庶民の家紋にも使用され、江戸時代には幕臣約160の家紋となったほど代表的な家紋です。石田三成や大久保利通も藤紋を使用していました。 使用者は、公家では一条家、二条家、九条家、武家では本願寺氏、大久保氏、片倉氏、黒田氏、新庄氏です。また、「藤」の付く名字にちなんで安藤氏、加藤氏、内藤氏、藤井氏、佐藤氏なども使用しています。 特に藤の葉を左右に伸ばし円型に描く藤丸や、十字形の八つ藤が人気となっていました。

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まとめ

湯長谷藩」は内藤家が磐城平藩の藩主時代に支藩として立藩し、その後内藤家のみによって明治時代まで統治され続けた、しっかりとした藩であることがわかりました。

藩によっては藩主の家がころころと変わってしまうこともあったようなので、湯長谷藩のように同じ家で代々統治し続けたのは偉大かと思います。それぞれの藩にそれぞれのストーリーがあるので、是非ほかの藩もチェックしてみてくださいね。

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