【江戸幕府300藩】黒石藩の家紋は津軽家の「津軽牡丹」|弘前藩の支藩

青森県の代表的な観光スポットといえば弘前の桜ですが、その弘前藩の支藩として誕生したものに「黒石藩」というものがあります。支藩なので、家紋やエリアなどは弘前藩と同じでした。

今回は、弘前藩の支藩であった「黒石藩」の成り立ちや藩主・家紋・本庁であった黒石陣屋などについてご紹介いたします。

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黒石藩ってどんな藩だったの?

黒石藩の基礎情報




石高 1万石
旧国 陸奥(青森県)
居城 黒石陣屋(黒石市)
藩主 津軽家
家紋名 津軽牡丹
江戸城控間 柳間
陣屋
爵位 子爵

黒石藩の藩主の変移

  • 初代…………津軽親足
  • 最後の藩主…津軽承叙

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黒石藩は弘前藩の支藩だった

黒石藩は、津軽藩とも呼ばれた「弘前藩」の支藩であり、陸奥国津軽部び一部を領有した子藩です。弘前藩は10万石の大きな藩に成長し、子藩である黒石藩は1万石となっています。

どちらも地名と同じ名の津軽家が藩主となっており、家紋も同じ「津軽牡丹」を使用しています。

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「津軽信政」の本家宗家のタイミングで分藩した黒石藩

黒石藩は、本家である弘前藩に幼少で就任した津軽信政就任のタイミングで、弘前藩より黒石領と4000石を分知され始まりました。初代津軽親足の際には、弘前藩より更に6000石の加増が与えられ、1万石の大名として立藩します。

「烏城」とも呼ばれた本庁黒石陣屋→小学校→公園に

本庁は石黒陣屋に置かれ、その城壁が黒かったことから「(カラス)」という名も付いていました。陣屋は1656年に交代寄合であった津軽信英によって築城されましたが、1871年の廃藩置県と黒石県の成立・弘前県への吸収合併により存在意義を失い、廃城となりました。

その後1873年になると黒石陣屋の跡地には小学校が建設され、小学校外転すると市民文化会館や中央スポーツ館の敷地となり、御幸公園という公園へと変遷しました。

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戊辰戦争では弘前藩と協力

幕末に起きた戊辰戦争では、黒石藩は本家の弘前藩と共に行動しました。盛岡の八戸藩連合軍によって弘前藩・黒石藩共に撃退されてしまいますが、新政府は両藩の私闘として処理されています。戦争という名が付いていますが、小さな局地戦とも言われています。

黒石藩藩主「津軽承叙」の功績

当時の藩主は黒石藩最後の藩主である津軽承叙で、27歳という若さでした。戊辰戦争の後、箱館(函館市)に出兵し、政府からは賞金1,000両が下賜されました。

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黒石藩の家紋は津軽家の「津軽牡丹」

牡丹は中国原産の花で、百花の王として最も高貴な花とされてきました。8世紀頃に日本に伝来し、貴族の筆頭である藤原氏の家紋として用いられて平安貴族に好まれました。 貴族の中では家紋以外にも衣服や牛車の文様としても牡丹紋が使用されていたほどです。やがて摂関家の近衛家や鷹司家の家紋となります。 江戸時代になると武家の間で多く用いられるようになり、摂津多田源氏の一族に多く用いられました。家康の菊紋、葵紋についで威厳のある紋として扱われ、後に使用が限られます。 公家では他に難波氏、武家では秋田氏、津軽氏などが使用者となっています。

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まとめ

弘前藩の支藩であった黒石藩についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?弘前藩と同じ津軽エリアの藩で、廃藩置県が起こると弘前県に吸収合併され、現在では青森県の一部となっています。

黒石陣屋がなくなってしまったのは残念ですが、その後小学校や公園になるなど、新しい形で土地が活用されているのは嬉しいことです。当時の藩主たちもきっと見ているのではないでしょうか。

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