【江戸幕府300藩】大野藩の家紋は土井家の「丸に六つ槌車」|あらゆる藩政改革に取り組み借財返上に成功

越前国に存在していた「大野藩」は、歴代藩主の巧みな藩政改革により借財を返上し、地場商品をあちこちで販売するなど斬新な方法で財政を潤しました。

今回は、「大野藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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大野藩ってどんな藩だったの?

大野藩の基礎情報

石高 4万石
旧国 越前(福井県)
居城 大野城(大野市)
藩主 松平(越前)家~土井家の3家
家紋名 丸に六つ槌車・丸に六つ槌車・丸に六つ柄杓車
江戸城控間 雁間
城主
爵位 子爵

大野藩の歴代藩主3家

松平(越前)家▶︎松平(越前)家▶︎土井家

大野藩は・つの家によって支配されていました。

大野藩の藩主の変移

  • 初代藩主……松平直政 
  • 最後の藩主…土井利恒

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あらゆる藩政改革で借財を返上!

大野藩は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在し、藩庁を大野城に置いていました。松平家に始まり、土井家が藩主となると藩政の基盤作りから藩校・軍政の整備など様々な面で尽力します。8代にわたり土井家が支配し、その後廃藩置県を迎えました。

松平家による大野藩の立藩

大野藩は、結城秀康の3男・松平直政が分家したことに始まりました。立藩当初は福井藩の支藩で5万石、秀康の子が4代にわたり入封・移封を繰り返しました。松平家最後の藩主が明石藩に移封となり、松平家の時代に幕がおります。

土井家による大野藩支配

松平家に代わり大野藩に入封したのは幕府初期の大老・土井利勝の4男・土井利房です。利房はすぐに死去しますが、その後8代にわたり明治維新まで存続することとなります。

土井家の歴代藩主たちは安定的に藩の基盤を築き、飢饉が起り財政が逼迫した際も藩政改革に取り組み、改革を始めて8年後には借財を全て返済することに成功します。これには生産性の向上に努めたことや、有能人材の登用などあらゆる面からのアプローチがありました。

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土井家の藩主の中でも特に尽力したのは7代目・利忠です。藩営病院の設立や西洋軍制の導入、藩校就学の徹底や遊学の推奨など様々な活動に注力しました。

また殖産興業にも取り組み、地場産品を大野屋の屋号を掲げる12の藩直営商店で販売することに成功し、藩の財政は潤うこととなりました。軍制改革の一つとして「大野丸」という船を建造し、交易にもかかんに挑戦しました。

やがて明治維新を迎えると廃藩置県となり、大野藩は大野県▶︎福井県へと変遷しました。

大野藩の家紋は土井家の「丸に六つ槌車・丸に六つ槌車・丸に六つ柄杓車」

車紋は牛車の車輪をかたどったもので、牛舎は平安貴族の乗り物でもあったため「栄華の象徴」ともされていました。 家紋として用いられるようになったのは鎌倉時代で、幾何学的な美しさから人気がありました。 藤原秀郷流の佐藤氏族が家紋として使用したことをきっかけに全国に普及し、武家では柳原氏が使用しています。 江戸時代には車紋が「源氏車紋」や「車輪紋」と呼ばれていました。見て車輪とわかるようなデザインのものが多く、源氏車、榊原車、三つ割り重ね源氏車、陰源氏車などがあります。また、中には車輪全体を描いたものではなく、半分だけの生駒車という珍しいものも存在しています。

詳しくはこの記事をチェック!

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まとめ

「大野藩」は土井家が藩主となると藩の基盤作りから始まり、その後は藩校の設置や病院の設置などあらゆる面で藩作りに注力したのでした。殖産興業にも力を入れるなど、特に7代藩主が活躍した藩です。

是非他の藩についてもチェックしてみてくださいね。藩によって力を入れた改革内容が異なるので見比べてみると面白ういですよ。

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