【江戸幕府300藩】越前藩の家紋は松平(越前)家の「松平三つ葵」|徳川家康の次男が立藩・歴代藩主には数々の事件が

「葵紋」は徳川家専用の家紋として有名ですが、その葵紋を使用していた家が藩主を務めた「越前藩」という藩があります。徳川家康の次男が関ヶ原の戦いの功績を称えられる形で立藩した越前藩は、時代と共に規模が縮小していき、財政が厳しくなるも見事再建を果たしました。

今回は、「越前藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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越前藩ってどんな藩だったの?

越前藩の基礎情報

石高 32万石
旧国 越前(福井県)
居城 福井城(福井市)
藩主 結城家・松平(越前)家
家紋名 松平三つ葵
江戸城控間 大廊下
国主
爵位 伯爵

越前藩の歴代藩主2家

結城家▶︎松平(越前)家

越前藩は2つの家によって支配されていました。

越前藩の藩主の変移

  • 初代藩主……結城秀康 
  • 最後の藩主…松平茂昭

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越前藩歴代藩主に起こる数々の事件…

越前藩は、越前国(現在の福井県嶺北中心部)に存在し、藩庁を福井城に置いていました。立藩当初は67万石あった所領は、歴代藩主に起こる数々の事件と共に縮小していき、最終的には32万石にまで落ちていったのでした。

徳川家康の次男により越前藩立藩

越前藩は、関ヶ原の戦いで功績を挙げた徳川家康の次男・秀康がその功績を称えられる形で67万石与えられて立藩しました。秀康が姓を結城から松平に改姓し、柴田勝家が築いた北ノ庄城を大規模改修して新たに「福井城」とし、そこを居城としました。

越前藩藩主の変歴〜負の連鎖〜

初代藩主・秀康が入封から6年後、わずか34歳の若さで死去すると、2代目藩主を忠直が勤めます。が、忠直は乱交のかどで配流され、4代光通は自殺、6代綱昌は発狂して強制的に隠居されられ、12代重富は費用を乱用するなど、歴代藩主にあらゆる悪いことが起き、藩政が次第に悪化してきました。

2代目から始まった不吉な事態と共に越前藩の所領は徐々に縮小していき、最終的な石高は32万石となっていました。立藩当初は67万石だったので、半分以下にまで落ち込んでいたのです。

越前藩藩主の取り組み〜負の連鎖からの脱却〜

これまでの歴代位藩主の負の連鎖による藩政を改善しようと立ち上がったのが16代藩主・慶永でした。慶永は藩外から横井小楠を招くなどして藩政改革に尽力しました。

更に慶永は幕政に進出し、安政の大獄では謹慎となってしまいますが、謹慎が解けると公武合体派の重鎮として政事総裁職に就任するまでに至りました。

やがて廃藩置県となると福井県▶︎足羽県▶︎敦賀藩▶︎石川県と変遷し、最終的にはその中心部となりました。

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越前藩の家紋は松平(越前)家の「松平三つ葵」

葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。

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まとめ

越前藩」は徳川家康の次男が関ヶ原の戦いの功績を称えられる形で立藩し、その後は数々の負の連鎖が藩主に起こる中、16代藩主の時代から再建改革により徐々に立て直されました。

使用家紋は徳川家と一部の松平家にのみ使用が認められていた「葵紋」です。この紋には威厳があるとされ、家紋の中でも上の方に位置します。ぜひ葵紋の記事についてもチェックしてみてくださいね。

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