茨城県牛久市には「ブロンズ製大仏」と言われる120mにもなる大きな大仏像がありますが、この地域はかつて「牛久藩」となっていました。
牛久藩は山口家によって代々支配され続け、とても安定的に存続していた藩でした。
今回は、「牛久藩」の歴代藩主である山口家の歴史と、使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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牛久藩ってどんな藩だったの?
牛久藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 牛久陣屋(牛久市) |
藩主 | 山口家 |
家紋名 | 山口菱 |
江戸城控間 | 菊間広縁 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
牛久藩の歴代藩主
藩によってはころころと変わる藩主の家ですが、牛久藩においては山口家のみとなっています。山口家は12代にわたって支配し続けました。
牛久藩の藩主の変移
- 初代藩主……山口重政
- 最後の藩主…山口弘達
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12代の山口家に統治され続けた牛久藩
牛久藩は、常陸国河内郡(現在の茨城県牛久市)に存在していた藩で、山口家が代々12代にわたり支配し続けていました。戦国時代の西国大名では最強と呼ばれた名門・大内家を祖としています。山口家によって統治されていた牛久藩の歴史を見てみましょう。
関ヶ原の功績によって立藩した牛久藩
牛久藩のはじまりは、山口重政が関ヶ原の戦いの際に発生した上田城攻撃に際し、徳川秀忠に随行する形で参戦したことが讃えられたことでした。この功績から、1万石を与えられる形で牛久藩が立藩します。山口重政は、織田信長の次男・信雄に仕え、その後徳川家康にも仕えていました。
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重政の不始末により改易するも許される
初代藩主である重政は、重政の嫡子である山口重信と大久保忠隣の養女との婚姻を幕府に届けなかったことにより、改易されてしまいます。これが1613年のことでしたが、1615年に行われた坂夏の陣の武功が評価され、罪は許さ再び藩主の座へと返り咲きました。この時、常盤国と遠江国に1万5,000石の所領を与えられます。
牛久陣屋は2代藩主・山口弘隆の時代に
牛久藩の藩庁は牛久陣屋に置かれていました。陣屋が設立されたのは2代目藩主・弘隆の時代で、領地が常陸国・下総国に集められ、牛久に陣屋を構えました。
そして弘隆は弟の重恒に5,000石を分け与えたため、牛久藩は1万石となったのでした。この後も山口家のみが代々受け継ぐ形で支配し続け、明治維新まで安定した統治を行っていったのでした。牛久陣屋も同じく、明治維新まで維持され続けました。
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牛久藩の家紋は山口家の「山口菱」
菱紋は、菱形の幾何学的な紋の総称です。古代から世界中で見られた文様で、植物であるヒシの実に由来していると言われていますが詳細は不明です。土器にも鱗と同様刻まれていることから、呪術的な意味もあったと考えられています。 家紋としては人気があった代表的な紋で、一つから最大で十六個の菱を組み合わせ、バリエーションは様々ありました。また、配列や向きを変えたものなどがあり、江戸時代には幕臣約150の家紋に用いられたと言われています。 有名なものは、甲斐源氏や信濃源氏一族に用いられた「割菱」、小笠原家の「三階菱」などです。武家の使用者は他に、高杉晋作、松前氏、武田氏、市橋氏、三好氏、大内氏、山口氏などです。
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まとめ
「牛久藩」は山口家によって12代も受け継がれ続けた、途中改易されるも存続していた藩でした。藩によっては不安定となり藩主がころころと変わっていくこともあるので、非常に安定的な藩であったことがわかります。
牛久藩は現在は牛久市になっており、大きな大仏が名物となっている特徴もありましたね。歴史を通じて現在のその場所を知ることもできるのが歴史の面白いところですね。
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