現在の福島県にあった「棚倉(たなくら)藩」は、城を築き城下町までつくったにも関わらず、その後「左遷地」と化してしまった少し残念な藩です。約270年ほどの間に9つの家が入れ替わり、左遷地棚倉に飛ばされてきた理由も様々でした。
今回は、「棚倉藩」の藩主となった家々や左遷の理由・家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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棚倉藩ってどんな藩だったの?
棚倉藩の基礎情報
石高 | 10万石 |
旧国 | 陸奥(福島県) |
居城 | 棚倉城(棚倉市) |
藩主 | 立花家〜阿部家の9家 |
家紋名 | 丸に違い鷹の羽 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵伯爵 |
棚倉藩の藩主の変移
- 初代藩主……立花宗茂
- 最後の藩主…阿部正功
初代藩主立花家〜最後の藩主阿部家までの間に7家もの家があるのが棚倉藩の特徴です。全9家にはどのような家があったのか、次で詳しく見てみましょう。数々の家が入れ替わったのには家々で起きた粗相が関係していました。
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棚倉藩は9家が入れ替わった左遷地
棚倉藩は1603年の立藩から廃藩置県による1871年の廃藩までに、9つもの家が入れ替わった左遷地でした。初代藩主は立花家の立花茂宗です。浪人となっていた立花当主の茂宗が1万石で入部し、棚倉藩が立藩されました。茂宗は大阪の陣で東軍勝利に貢献し、のちに筑後柳河藩に国替えされ旧領に舞い戻ることとなります。
棚倉藩の歴代藩主9家
棚倉藩の藩主は、このような変遷となっていました。268年の間に9家が入れ替わっているので、1家あたりの平均は約30年となっています。
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棚倉城を築城した2代丹羽家の「丹羽長重」でしたが…
棚倉城は「棚倉城跡地」として福島県東白川郡棚倉町に残る城ですが、これを1625年に築城したのが丹羽家の丹羽長重です。5万石で入部した長重は、棚倉城を築城し城下町を整備します。
藩財政の基盤が確立されたのも丹羽家ん統治下でした。城を築き城下町も整備した棚倉藩でしたが、表高の割に実石は少なく、失脚した譜第大名の典型的な左遷地と化してしまいます。
棚倉城の別名は「亀ヶ城」
丹羽長重によって築城された棚倉城は、「亀ヶ城」という別名もありました。写真のようにお濠があったのですが、ここに大きな亀が住んでいたことからつ付いた名前です。この亀が現れると殿様が転封になるというジンクスもあったようです。
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「左遷地」棚倉藩に飛ばされた理由とは
左遷地となってしまっや棚倉藩に飛ばされてきた理由は、家によってそれぞれでした。確かに左遷するよね…と思ってしまうな数々の原因を見てみましょう。
- 松平越智家…………8代将軍吉宗に疎まれて左遷
- 井上家正甫…………鷹狩中に農家の人妻に手を出して左遷
- 松平松井家康爵……父・健任が老中の座にありながら密貿易に手を出して左遷
- 阿部家正外…………兵庫開港を主張し朝廷が忌避→子の正静が左遷
いかがでしょうか?阿部家の正静に関しては何もしていないのに父の行いによって棚倉へと左遷になっています。しかし、人妻に手を出したり密貿易に関与したのは左遷になっても仕方のない理由ですよね。
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棚倉藩の家紋は阿部家の「丸に違い鷹の羽」
鷹は、俊敏に飛び強さや威厳の象徴であることや、武器である矢の羽根として用いられたことから、鷹の羽紋は武家に好まれました。 また、古来から鷹狩りも行われており、その優美な印象から武家以外では公家でも用いられていた家紋です。公家の使用家に芝山家があります。 鷹の羽紋は動物紋に分類されますが、たいていの動物紋は姿全体を描いたものが多いため、鷹の羽のみをモチーフにしたこの紋は珍しいものでもありました。 鷹の羽紋の誕生は、後醍醐天皇の皇子にあたる菊池武光が用いたことと言われています。そして関ヶ原の戦いで石田三成と親しい戦国武将の大谷吉継が鷹の羽紋を用いたことをきっかけに大きく広がりました。
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まとめ
左遷地「棚倉藩」の家々や左遷理由などについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。現在も会社では「左遷」ということが起きますが、その文化が昔からあったのは面白いですね。理由も様々で、左遷となるのも納得のものが多数ありました。
有名ではない藩も、調べてみるとちょっと面白いストーリーを知ることができますので、是非他の藩についてもチェックしてみてくださいね。
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