「卍」という記号をご存知ですか?現代の若者言葉で「まんじ」が一時ブームとなりましたが、かつては家紋として用いられていました。その卍紋を使用していた家の一つに堀家があり、信濃国須坂藩を支配していました。
今回は、「須坂藩」の歴代藩主やその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。
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目次
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須坂藩ってどんな藩だったの?
引用:古城盛衰記
須坂藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 信濃(長野県) |
居城 | 須坂陣屋(須坂市) |
藩主 | 堀家 |
家紋名 | 六角に卍 |
江戸城控間 | 柳間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
須坂藩の歴代藩主
須坂藩は、14代にわたり堀家に支配され続けていました。
須坂藩の藩主の変移
- 初代藩主……堀直重
- 最後の藩主…堀直明
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掘家により14代支配された1万石の須坂藩
須坂藩は、信濃国高井郡(現在の長野県須坂市)に存在し、藩庁を須坂陣屋に置いていました。堀家が代々14代にわたり支配し、歴代藩主の中には幕府の要職に就いていた者が多くいました。
須坂藩の立藩
須坂藩は、掘直政の子・直重が関ヶ原処分の後に与えられた所領を加増される形で立藩しました。直政は豊臣秀吉の重臣であった掘秀政一門家老でした。
立藩当初は1万2,000石だった須坂藩ですが、2代目藩主・直升の時代に次弟に1,000石、三弟と末弟にそれぞれ500石を分与したため、須坂藩は1万石の領地となりました。
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歴代藩主の多くは幕府の要職に
14代にわたり須坂藩を支配した堀家の歴代藩主の多くは、幕府の要職に就いていたことが特徴です。大坂番や大番頭・駿府・伏見奉行などの要職を務めていました。
また、9代藩主の時代には藩校「立成館」を設立し、学問を推奨しました。それ以外にも薬用人参の栽培や吉向焼の生産といった産業にも尽力した堀家ですが、努力とは裏腹に藩の財政は逼迫した状態でした。
須坂藩藩政改革の失敗
財政が厳しかった須坂藩は、野口源兵衛などを登用して財政改革を行いますが、領民の支持を受けられず改革は失敗に終わります。しかし幕末期の藩主・直虎は家老など41人を粛清し藩政を改革し、洋式の軍政を導入しました。
須坂藩はもともと佐幕派でしたが、最終的には新政府側に与し恭順しました。やがて廃藩置県となると須坂藩は廃藩、須坂県を経て長野県に編入されたのでした。
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須坂藩の家紋は堀家の「六角に卍」
卍紋は「万字紋」とも言い、現在は神社を表す記号として地図などで使用されています。「卍」は漢字ではなく梵字です。元々は仏教やヒンドゥー教との関わりがあるとされています。 卍は文様として人気があり、図形には「幸運福来」の意味が込められています。新石器時代の壺からも万字が発見されており、文様としての歴史は長いものと思われます。 卍紋は卍の回転の向きによって右卍と左卍があり、一つのモチーフとしてはシンプルですが様々な種類がありました。左卍菱、五瓜に卍、三つ卍の丸など全体としての形がアレンジされたものもあります。 使用者は多く、小野氏、服部氏、鳥居氏、岡部氏、朝比奈氏などが用いていました。
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まとめ
長野県に存在していた須坂藩は堀家によって14代にわたり支配され、幕府の要職に就いた藩主の多い藩でした。使用家紋の「卍(まんじ)」は、現代では地図上の寺を表すものですが、かつては家紋として人気の紋だったようです。
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