「諏訪湖」がある場所として有名な長野県諏訪市には、「諏訪藩」という藩が存在しました。諏訪家によって代々支配され続け、宿場町の整備や製紙業などで藩政を潤しました。
今回は、「諏訪藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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諏訪藩ってどんな藩だったの?
諏訪藩の基礎情報
石高 | 3万2,000石 |
旧国 | 信濃(長野県) |
居城 | 高島城(諏訪市) |
藩主 | 諏訪家 |
家紋名 | 丸に諏訪梶の葉 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
諏訪藩の歴代藩主
諏訪藩は、10代にわたり諏訪家に支配され続けていました。
諏訪藩の藩主の変移
- 初代藩主……諏訪頼水
- 最後の藩主…諏訪忠礼
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諏訪家により代々支配された諏訪藩
諏訪藩は、信濃国諏訪藩(現在の長野県諏訪市)に存在し、藩庁を高島城に置いていました。10代の諏訪家によって支配され、甲州道中や中山道の宿場町などを整備しました。
諏訪藩の立藩と高島城建築
当地は、長い間諏訪家や武田家が覇権を争っていました。関ヶ原処分の後に美濃の斉藤家・織田家・豊臣家の旧臣として知られる日根野高吉が3万8,000石を与えられる形で立藩しました。
諏訪藩の藩庁は高島城ですが、7年もの年月をかけて築城したのも日根野氏です。子の吉明が継ぎますが、下野国壬生藩に移封となります。
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10代続いた諏訪家の支配
その後諏訪家が入封すると、維新まで10代にわたり諏訪家が諏訪藩を支配することとなります。幕末に起きた天狗党の乱では、松本藩と合同で迎撃に出るも大敗を喫してしまいます。また、戊辰戦争の際には新政府軍に与し、会津戦争・北越戦争・甲州勝沼の戦いなどで従軍しました。
諏訪家は新田開発に力を入れ、領内に多くの新田村が誕生しました。高島城下東隣のエリアの上諏訪は甲州道中、下諏訪は中山道の宿場町として繁栄し、「長善(ちょうぜん)館」という藩校も設立しました。また、18世紀頃からは養蚕・製紙業が栄え、藩政を潤わせていたのでした。
やがて廃藩置県を迎えると諏訪藩は廃藩し、高島県・筑摩県を経て長野県に編入となりました。
高島城は「続日本100名城」に選定
諏訪藩の藩庁であった高島城は2017年に「続日本100名城」に選ばれ、現在は諏訪市の観光スポットとなっています。
当時建築には7年という長い年月がかけられました。かつては諏訪湖から突き出るような水城だったため「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれていましたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われたことにより水城ではなくなりました。
しかし、浮城と呼ばれていた過去があることから「日本三大湖城」の一つにも数えられています。
- 時代・地域の代表であること
- 著名な歴史の舞台であること
- 優れた文化財・史跡であること
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諏訪藩の家紋は諏訪家の「丸に諏訪梶の葉」
梶はクワ科の落葉樹で、古代から葉や皮は主に神事の際に食材を盛る器として使用されていました。そのことから神官の衣服の文様として梶の葉が用いられるようになり、その後家紋としても使用されました。 梶紋は諏訪神社の神紋でもあり、諏訪神社の神官一族や諏訪神社を信仰する信州や甲斐、越後の武士や豪族によって全国各地に広まりました。また、諏訪神社の出である梶氏や神氏などの間でも用いられました。 ほかに信濃の安部氏、平戸藩の松浦氏などが使用家です。梶紋は丸に立ち梶の葉や、葉の中が真っ白な中影立ち梶の葉、5枚の梶の葉を使った五つ梶の葉車、輪の中に小さな梶を入れた毛輪に豆梶の葉などがあり、種類は豊富です。
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まとめ
「諏訪藩」は諏訪家によって10代にわたり支配され、宿場町の整備や養蚕・製紙業などに力を入れて藩政を潤していたのでした。このように一つの家が長年にわたり藩主を務めた藩は比較的藩政が安定しています。
藩によっては藩主が目まぐるしく変遷したところもありますので、ぜひいろいろな藩をチェックしてみてくださいね。
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