現在の茨城県には、かつて複数の藩が存在していました。その中でも今回ご紹介するのは藩主が5度も変わった「下館藩」という藩です。
なかなか安定しなかった下館藩ですが、最終藩主になると約130にわたり代々支配されることとなります。
今回は、「下館藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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下館藩ってどんな藩だったの?
下館藩の基礎情報
石高 | 2万石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 下館城(筑西市) |
藩主 | 水谷家~石川家の6家 |
家紋名 | 笹竜胆 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
下館藩の歴代藩主6家
下館藩は6つの家が代わる代わる藩主を務めており、なかなか安定しない藩でした。
下館藩の藩主の変移
- 初代藩主……水谷勝俊
- 最後の藩主…石川総菅
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転封⇄入封を繰り返した下館藩
下館藩は、常陸国西北部(現在の茨城県筑西市)に存在していた藩で、藩庁は下館城に置いていました。立藩するも藩主はどんどんと変遷していきましたが、最終的に藩主となった石川家は130年にわたり支配し続けました。
下館藩立藩と藩の礎の構築
下館藩は、当地を支配していた水谷家が関ヶ原処分により所領を安堵される形で立藩となりました。初代藩主は水谷勝俊で、勝俊の子である2代目藩主・勝隆の時代になると城下町の整備や寺社の建設、検地などを行い、下館藩の礎を構築します。
藩政を確率させようと努力した水谷家でありましたが、備中成羽藩に転封となり、水谷家の時代はわずか2代で終わって
しまいました。
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ころころと変遷の激しい下館藩主
水谷勝隆が転封となると、代わって水戸家から藩主・頼房の長男である松平頼重が入封します。水谷家に続き、城下町の整備や町年寄りの設置など、よりよい藩を目指し試行錯誤しますが、入封から3年弱で讃岐高松藩に転封となり、松平家は頼重のみで終わってしまいます。
そこからというもの、増山家・井上家・黒田家と藩主は代わる代わる変遷していき、安定した藩ではありませんでした。転封の度に代わっていった藩主ですが、石川家になるとようやく落ち着きを取り戻ります。
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130年にわたり下館藩を統治した石川家
水谷家に始まり、5つもの家が藩主となって不安定な状態であった下館藩ですが、石川家の総茂が2万石で入封してからは約130にわたり石川家が統治し続けることとなりました。
元々神戸藩より転封してきた石川家ですが、下館は綿花や木綿の特産地として繁栄し、城下町も大きな賑わいで溢れました。
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自然災害・大飢饉でドン底へ
藩として安定し財政も上手くいっていた下館藩ですが、石川家の4代藩主・総弾の時代になると自然災害に見舞われ、また大飢饉により生活は一変します。農村は荒れ、財政難となり藩の状況はドン底に落ちてしまったのです。
その状況をを解決すべく、8代藩主・総貨は農政家の二宮尊徳に助けを求め、財政再建築に向けた藩政改革を始めたのでした。
戊辰戦争で終われ、廃藩置県を迎える
1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に攻撃され、追われることとなりました。やがて1871年になると廃藩置県となり下館藩は廃藩、下館県となりました。藩庁であった下館城は1869年ごろ廃城になったとされています。
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下館藩の家紋は石川家の「笹竜胆」
龍胆は、青紫色の花を咲かせ山野に咲く多年草です。日本では古くから親しまれ、万葉集にも登場しています。 平安時代に文様として用いられるようになり、主に衣装や調度品、牛車などに使用されていました。家紋としては同じ平安時代に村上源氏の一族に用いられ、源義経や木曽義仲などにも使用されました。その後江戸時代では清和源氏と関係のある全ての武家が使用していたと言われるほど広く浸透しています。 龍胆紋は全国各地で使用された家紋で、華やかなものも多く、久我龍胆や蔓笹龍胆、池田三つ龍胆などがあります。基本の形の龍胆紋は、三つの花と五つの葉で構成されていました。石川氏、池田氏、馬場氏、本堂氏なども使用しています。
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まとめ
「下館藩」は藩主が6つも変遷していきましたが、最終藩主である石川家の時代になるとようやく落ち着いたようでした。しかし自然災害などに遭い、財政は一時危機的状況となりました。
藩により安定し財政が潤っていた藩・破綻するほどの危機的状況だった藩など様々なので、いろいろな藩を比較してみてくださいね。
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