【江戸幕府300藩】荻野山中藩の家紋は大久保家の「丸に大の字」|小田原藩の支藩で財政厳しく

現在の神奈川県厚木市には「荻野山中藩」という小さな藩がありました。小田原藩の支藩として存在していましたが、その藩政は厳しかったようです。小さな藩は財政が潤わないところが多くありました。

今回は、「荻野山中藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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荻野山中藩ってどんな藩だったの?

荻野山中藩の基礎情報

石高 1万3,000石
旧国 相模(神奈川県)
居城 荻野山中陣屋(厚木市)
藩主 大久保家
家紋名 丸に大の字
江戸城控間 菊間広縁
陣屋
爵位 子爵

荻野山中藩の歴代藩主

▶︎大久保家のみ◀︎

荻野山中藩は、3代にわたり大久保家に支配され続けていました。

荻野山中藩の藩主の変移

  • 初代藩主……大久保教翅 
  • 最後の藩主…大久保教義

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荻野山中藩は小田原藩の支藩

荻野山中藩は、相模国愛甲郡(現在の神奈川県厚木市中荻野)に存在し、藩庁を荻野山中陣屋に置いていました。

荻野山中藩は小田原藩の支藩

荻野山中藩の初代藩主になったのは、駿河国松長藩主の大久保教翅です。松長藩の陣屋を移転したことにより荻野山中藩が立藩しました。

小田原藩の支藩で小藩ゆえに財政は厳しく、初代藩主の時代から窮乏化は進んでいました。やがて2代目の教考に代替わりし、「養蚕要略」を交付して養蚕業を推奨するも効果は出ず、財政が右肩上がりになることはありませんでした。

荻野山中陣屋の焼失

藩の財施は乏しい中、1867年には倒幕派浪士隊によって陣屋が襲撃され、多数死者が出るほどの騒動になります。これにより陣屋は焼失し、藩の状況はより厳しいものとなりました。

最終藩主・教義は版籍奉還により知藩事となり、1871年の廃藩置県で荻野山中藩は廃藩、荻野山中県▶︎足利県▶︎神奈川県と変遷していきました。3代にわたり大久保家が支配しましたが、立藩から廃藩まで財政は厳しく、あまり目立った功績もない藩でした。

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荻野山中藩の家紋は大久保家の「丸に大の字」

字紋は文字そのものを紋にしたもので、「文字紋」と呼ばれることもあります。字を見ればどんな意味があるのかすぐにわかることや、信仰や縁起に関わるものとして人気の紋でした。 一や二などの漢数字が用いられることが多かったのですが、中には名字の一部を図案化したり、二文字用いて図案化するものもありました。 珍しい字紋には、縦に一番と描いた一番字、丸に南の字、丸に変形した林を入れた丸に林字、六文字用いた大一大万大吉などがあります。 稲葉氏は「隅切り角に角三」、北条氏は「隅立て折敷に二の字」、島津氏は「十の字」、村上氏と八代氏は「丸に上の字」を使用していました。

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まとめ

荻野山中藩」は3代の大久保家によって受け継がれましたが、蚕業も上手く行かず、後期には陣屋を焼失するなどあまり良い出来事のない藩でした。

神奈川県には他にも幾つかの藩が存在しており、こちらのサイトでご紹介していますので是非あわせてチェックしてみてくださいね。

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