現在の愛知県碧南市には、かつて「西端藩」という藩が存在していました。長い間大名と認められず、明治維新の直前に立藩した歴史の浅い藩ですが、どのような経緯があったのでしょうか?
今回は、「西端藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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西端藩ってどんな藩だったの?
引用:edononagori
西端藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 三河(愛知県) |
居城 | 西端陣屋(碧南市) |
藩主 | 本多家 |
家紋名 | 花立ち葵 |
江戸城控間 | 菊間広縁 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
西端藩の歴代藩主
西端藩は、本多家によって支配されていました。
西端藩の藩主の変移
- 初代藩主……本多忠寛
- 最後の藩主…本多忠鵬
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明治維新の直前に立藩した西端藩
西端藩は、三河国(現在の愛知県碧南市)に存在し、藩庁を西端陣屋に置いていました。長い間本多家の旗本が支配していましたが、9代目の時代にようやく認められて大名となったのでした。明治維新直前に立藩したということで、歴史の浅い藩です。
明治維新の直前に西端藩立藩
西端藩が立藩となったのは1864年で、明治維新の直前でした。本多忠相が三河国碧海郡西端で1000石を与えられる形で立藩しました。その後三河国に加え上総国・下総国・安房国で加増をかさねたことにより8000石の大身旗本となります。
6代目の忠直の時代に西端陣屋を築きます。その後9代目となる忠寛が幕末期に天狗党の乱などに際し江戸警備に功をあげ、石高が見直されて遂に大名に取り立てられました。
すぐに版籍奉還を迎える
西端藩は立藩が遅かっただけに、藩としての歴史は深いものではありません。大名となった忠寛は病気をしたことで隠居し、その跡を嫡男の忠鵬が継ぎました。
忠鵬は農民兵を募集して洋式訓練を行い藩政改革を試みましたが、すぐに版籍奉還となり忠鵬は藩知事となって家族に列します。廃藩置県により廃藩となり、西端県▶︎額田県▶︎愛知県へと変遷していきました。
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西端藩の家紋は本多家の「花立ち葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「西端藩」は明治維新の直前に立藩したということもあり、他の藩に比べて歴史の浅い藩ですが、維新直前に立藩したこと自体がこの藩の一番の特徴となっています。
本多家の使用家紋は徳川家が独占していた「葵紋」です。家康も使用していた家紋で、とても有名な家紋の種類ですので是非家紋記事もチェクしてみてくださいね。
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