長篠の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.10

武田信玄亡き後、跡を継いだのは四番目の子供・勝頼でした。ところが、この勝頼の代で武田家はめつぼうしてしまいます。その滅亡のきっかけとなってしまったのが、「長篠の戦い」でした。

織田信長・徳川家康と武田勝頼が戦った「長篠の戦い」について記述してみました。

●1分で分かる長篠の戦い

・武田家の家臣が裏切る

武田信玄が亡くなり、その子供である勝頼が跡を継ぐと、家臣の奥平信昌が裏切ります。これに怒った勝頼は、奥平信昌を倒すために挙兵しました。

・信長・家康の軍が長篠城に援軍へ

信昌は「長篠城」というところにいたので、勝頼はこの城を軍勢で囲みます。が、家康と信長の軍が到着し「長篠の戦い」がはじまりました。

・大敗した武田軍~滅亡の序章

家臣が撤退を助言したにもかかわらず、勝頼は攻撃をやめることなく突撃を命令。その結果武田軍は大敗し、多くの優秀な家臣を失いました。この戦に敗けたことが、武田滅亡の序章となるのです…。

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武田信玄の病死から家臣の裏切りが発生

奥平信昌が家康側に就く

武田家の猛将・武田信玄が亡くなると、家臣だった奥平信昌が裏切り、敵対していた徳川家康についてしまいます。武田家の跡を継いだ勝頼は、この裏切りに激怒。信玄の代から武田家に仕えていた山県昌景は勝頼を止めますが、二人の関係は良くなかったために聞き入れられず、戦は始まってしまいます。これが「長篠の戦い」です。

・織田木瓜紋

織田信長が使用していることで、戦国時代随一の知名度がある「織田木瓜紋」。木瓜紋は「日本10大家紋」の一つで、特別に使用している人が多い家紋でもあります。多くの種類がある木瓜紋のなかで、ひときわ目立って有名なのが「織田木瓜紋」です。

・武田菱

武田信玄といえば、武田菱。武田の「田」が変形してできたなど、いろいろな説がある家紋ですね。
織田軍(戦力約38,000) 武田軍(戦力15,000)
大将 織田信長について織田信長 武田勝頼武田勝頼
家紋 odamoko織田木瓜 takedahishi武田菱
家紋解説
 

信長軍30000人+家康軍8000人VS武田軍15,000人

裏切りに怒った勝頼は、15000の兵を率いて信昌がいる長篠城に向かって挙兵。長篠城を囲みます。これを知った家康は、8000の軍を率いて応援に駆け付け、織田信長も30000の援軍を率いて現地に向かい、長篠の戦いが始まるのです。
最強の武田騎馬隊への対抗策「馬防柵」
武田家は、当時最も強いと言われていた「武田騎馬隊」を持っていました。この武田騎馬隊を警戒した信長・家康は、馬が入ってこれないように大きな柵を作り、そこに3000もの鉄砲をもった鉄砲隊を配置し、戦に備えました。

敗戦の勝頼は甲斐へ逃げ帰る

信長・家康の万全の準備と、家康の部下・酒井忠次が武田家の砦を攻撃するなどしたため、武田軍は追い詰められてきます。もともと家臣たちはこの戦に反対だったため、撤退を勝頼に助言するものの、勝頼は聞き入れませんでした。それどころか、突撃を命じたために騎馬隊は次々と倒れ、武田軍は山形昌景をはじめ多くの家臣を失いました。勝頼は甲斐に逃げ帰るものの、この戦いが武田家の決定的なダメージとなり、滅亡へと近づいていくのです。
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まとめ

この後、武田家は勝頼の代で滅亡という結末を迎えます。そのことと、この「長篠の戦い」のあまりの強引さに、勝頼はあまり良く言われることがありません。しかし、信玄のライバルだった謙信や、敵の織田信長は「優秀な武将である」と言っていますので、そこまで能力のない武将であったとは考えにくいです。また、信玄の時よりも領土を拡大させています。

また、勝頼の母は諏訪氏というところの女性だったのですが、この結婚は信玄の家臣たちは良く思っていませんでした。その息子の秀頼が、家臣たちに認められにくいのは当たり前です。勝頼は武田家を継ぐ予定ではなく、信玄が嫡男と対立したために急きょ継ぐことになったため、自分を認めているとはいいがたい家臣たちとやっていくのは難しかったでしょう。武田家が勝頼の代で滅亡したことは、嫡男と対立して勝頼に継がせざるを得なかった信玄にも責任があるのではないでしょうか。

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