「この紋どころが目に入らぬか」の台詞で有名な水戸黄門ですが、水戸徳川家の分家であり分藩に「守山藩」という藩がありました。
徳川関係の家ということで家紋には「葵紋」が用いられています。どのような藩だったのでしょうか?
今回は、「守山藩」の起源や藩主・水戸の松平家とその家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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守山藩ってどんな藩だったの?
守山藩の基礎情報
石高 | 2万石 |
旧国 | 陸奥(福島県) |
居城 | 守山陣屋(郡山市) |
藩主 | 松平(水戸)家 |
家紋名 | 守山三つ葵 |
江戸城控間 | 大広間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
守山藩の歴代藩主
藩によってはころころと変わる藩主の家ですが、守山藩においては松平家のみとなっています。14代の内藤氏によって統治されました。
守山藩の藩主の変移
- 初代…………松平頼貞
- 最後の藩主…松平頼之
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守山藩は水戸徳川家の分家・分藩
守山藩は、陸奥国田村郡(現在の福島県郡山市守山)を領有した親藩です。水戸徳川家の分家であり、水戸藩の分藩でもありました。
松平一家で統治し続け、初段藩主は松平頼貞が務めました。江戸時代前期から中期にかけての大名で常陸国額田藩2代目藩主にもなっていた人物です。また松平頼貞は、水戸徳川家初代の徳川頼房の孫でもありました。
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守山藩の正式な始まりは5代将軍徳川綱吉の令
初代藩主は徳川頼房の四男である松平頼元で、水戸徳川家御連枝として常陸国額田(ぬかだ)藩を立藩したことが守山藩の起源となっています。
守山藩の正式な始まりは1700年に5代将軍徳川綱吉の命により、新知行地として守山2万石を与えられた時とされています。歴代藩主は江戸屋敷に居住し、参覲交代することはありませんでした。藩庁である守山陣屋が置かれましたが、当地には代官のみが置かれていました。
本庁・守山陣屋は移転し常陸国松川藩に
守山陣屋は守山藩の藩庁となっていましたが、1870年に常陸国松川に藩庁が移転されました。そして名を松川藩と改め、1871年の廃藩置県を迎え松川県となりました。その後、常陸国内の旧藩領は新治県を経て茨城県・福島県に編入されました。
現在、守山陣屋のあった場所は住宅街となっており、当時の面影はなくなっています。
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守山藩の家紋は松平(水戸)家の「守山三つ葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「守山藩」は水戸徳川家の分家であり、水戸藩の分藩であることがわかりました。松平家の一家により統治されていましたが、陣屋はあまり使用されていなかったようです。
徳川家の分家ということで家紋には「葵紋」が使用されていました。この紋は徳川家や一部の松平家以外の使用が法によって禁じられていたものなので、とても貴重な家紋だったのでしょうね。
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