群馬県前橋市は群馬の代表的な場所ですが、ここは以前松平家によって支配されていました。利根川があったこともあり前橋城水災害に見舞われ、一度は藩庁を別の場所に移しますが、最後は以前と同じ前橋城に戻ってきた歴史のある藩です。
今回は、「前橋藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。
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目次
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前橋藩ってどんな藩だったの?
前橋藩の基礎情報
石高 | 15万石 |
旧国 | 上野(群馬県) |
居城 | 前橋城(前橋市) |
藩主 | 酒井家~松平(越前)家の3家 |
家紋名 | 丸に三つ葵 |
江戸城控間 | 大広間 |
格 | 城主 |
爵位 | 伯爵 |
前橋藩の歴代藩主3家
前橋藩は2つの家によって支配されていました。松平越前家は2期にわたし藩主となり、その間は川越藩領となっていました。
前橋藩の藩主の変移
- 初代藩主……酒井重忠
- 最後の藩主…松平直方
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水災害により一度は藩庁を川越に移した前橋藩
前橋藩は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に存在し、藩庁を前橋城に置いていました。
徳川家と同祖とされる酒井家により立藩
前橋藩は家康の関東入りに伴う形で重臣・平岩親吉が当地に入り、しばらくの間領していました。その後、徳川家と同祖とされる酒井家が入封し、正式な立藩となります。
その後は主に絹産業で栄えますが、利根川があったこともあり水害を受け、藩の財政は厳しいものとなっていきました。
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藩主・松平越前家と前橋城の放棄
酒井家の次に藩主となったのは松平越前家です。酒井家最後の藩主が姫路藩に転封となったのと入れ替わり、姫路藩より松平朝矩が入封します。しかし場所柄、水災害に見舞われ、前橋城の本丸城地が完全に侵食してしまいます。
前橋城の再建はこれまでの幕政の逼迫を考えると厳しかったため、侵食された前橋城を放棄し「武蔵川越城」に居城を移転しました。これ以降、前橋藩は「川越藩」と呼ばれるようになりました。
藩庁・前橋城の再建築
水災害により藩庁を川越へ移した川越藩(前橋藩)でしたが、幕末になると前橋への帰城が許可されます。侵食された後数年放棄していた城を再建築するのには4年という長い年月がかかりましたが、見事前橋城は復活し、藩庁も元の場所に戻りました。
しかし、すぐさま大政奉還・王政復活の大号令となったため、戊辰戦争に将軍たちが謹慎したのを機に新政府側に恭順し、以降従うこととなりました。やがて廃藩置県を迎え、前橋藩は前橋県を経て群馬県となりました。
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前橋藩の家紋は松平(越前)家の「丸に三つ葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「前橋藩」は利根川があったため水災害を受けて一度は藩庁が川越に移ったものの、再び前橋城を建築し再度同じ場所で支配するまでに復活しました。家紋には徳川家の家紋である「葵紋」が使用されており、徳川家や一部の松平家にのみ使用が許されていた権威ある家紋です。
葵紋の使用者には様々な有力人物がいますので、是非家紋の詳細記事もあわせてチェックしてみてくださいね。
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