歴史を調べる中で「新田開発」という言葉をよく聞きますが、山間部などの土地によっては新田開発が不可能な場所もあったようです。その状況にあった藩の一つに「黒川藩」があります。
黒川藩は所領の大半が山間部であったため、新田開発ができず借財も膨れ上がっていたようです。
今回は、「黒川藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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黒川藩ってどんな藩だったの?
黒川藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 越後(新潟県) |
居城 | 黒革陣屋(胎内市) |
藩主 | 松平(柳沢)家 |
家紋名 | 四つ花菱 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
黒川藩の歴代藩主
黒川藩は、8代にわたり松平(柳沢)家に支配され続けていました。
黒川藩の藩主の変移
- 初代藩主……松平経隆
- 最後の藩主…柳沢光邦
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歴代藩主の多くは江戸定府で財政難に
黒川藩は、越後国蒲原郡黒川(現在の兄が肩権胎内市黒川)に存在し、藩庁を黒川陣屋に置いていました。8代にわたり柳沢家が支配した藩ですが、山間部が多く開発が不可能な土地だったことや、歴代藩主の多くが江戸定府ということで借財を背負っていました。
黒川藩の立藩と支藩体制
黒川藩は、1724年に5代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の4男・経隆が1万石を与えられる形で立藩しました。経隆は藩の基盤を作ろうと支藩体制を整えるための法度を制定しますが、立藩からわずか1年の1725年に急死してしまいます。
経隆に変わり里済が2代目藩主となり、藩の基礎作りを進めますが、百姓が江戸に税金・川下げ運賃御免などを求めて出訴し、年貢の未納が相次ぐなどの騒動が起こりました。里済は騒動にも負けず百姓らを徹底処罰し、宿場人馬の制度を整備して藩の支配体制を作り上げました。
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領地・歴代藩主の特徴と財政難
黒川藩は越後国蒲原郡黒川に存在していた藩ですが、この領地はほとんどが山間部であったため、新田開発には不向きな土地でした。実質的な石高は1万石以下と言われており、藩の財政は厳しいものでした。
それに加え黒川藩の歴代藩主の大半は江戸定府であったことから費用がかさみ、財政難によろり年貢の増徴や、本家である郡山藩から借財をしていたほどです。1843年には、黒川藩の借財は5,000両にも及んだことがわかっています。
藩校の設立そして廃藩置県
財政の厳しかった黒川藩ですが、7代藩主・光昭の時代には藩校「弘道館」を設立し、藩士の子弟教育に尽力しました。最終藩主となったのは光昭の養子・光邦で、版籍奉還により藩知事となり、やがて廃藩置県となると黒川藩は黒川県を経て新潟県へと編入されました。
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黒川藩の家紋は柳沢家の「四つ花菱」
菱紋は、菱形の幾何学的な紋の総称です。古代から世界中で見られた文様で、植物であるヒシの実に由来していると言われていますが詳細は不明です。土器にも鱗と同様刻まれていることから、呪術的な意味もあったと考えられています。 家紋としては人気があった代表的な紋で、一つから最大で十六個の菱を組み合わせ、バリエーションは様々ありました。また、配列や向きを変えたものなどがあり、江戸時代には幕臣約150の家紋に用いられたと言われています。 有名なものは、甲斐源氏や信濃源氏一族に用いられた「割菱」、小笠原家の「三階菱」などです。武家の使用者は他に、高杉晋作、松前氏、武田氏、市橋氏、三好氏、大内氏、山口氏などです。
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まとめ
「黒川藩」は8代にわたり柳沢家が支配していた藩ですが、歴代藩主の多くが江戸定府ということや、所領の大半が山間部のため開発ができず、相当な財政難にあった藩でした。
本家に借財をするほどなので、よっぴど厳しい藩政だったのだと思われます。越後国に存在していた藩は他にもありますので、あわせてチェックしてみてくださいね。
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