【江戸幕府300藩】久保田藩の家紋は「日の丸扇」関ヶ原の戦い後の転機

久保田藩の基礎情報




藩名 久保田藩
エリア
北海道・東北エリア
石高 20万石
旧国 出羽(秋田県)
居城
久保田城(秋田市)
藩主 佐竹家
家紋 佐竹家家紋
家紋名 日の丸扇
江戸城控間 大広間
国主
爵位 侯爵
藩主の変移
佐竹家

初代藩主 佐竹義宣

最後の藩主 佐竹義堯

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藩主家は一貫して佐竹家

久保田藩は「秋田藩」とも呼ばれ、現在の秋田県のほとんどを領した外様藩です。

佐竹家の始まりは、源義光の孫である昌義が常陸国佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み、佐竹姓を名乗ったことからと言われています。

義光流の名門として名を知らしめる

平安から鎌倉時代には常陸国守護職を与えられ、勢力拡大に奮闘しました。その結果、常陸の有力な一族として地位を確立しました。

戦国時代に入ると「鬼義重」と恐れられた18代当主義重は、常陸の大半を支配することに成功します。小田原征伐でも成果をおさめ、54万石の大名として認められました。

18代当主・佐竹義重

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関ヶ原で曖昧な態度。。。

しかし、関ヶ原の戦いでは久保田藩祖となる義宣は中立な立場のまま傍観していました。敵との内通を疑われ、徳川家康から出羽への移転を命じられてしまいました。

慶長7年久保田藩誕生

石高は減ってしまいましたが、新田や鉱山の開発を積極的に進め、米などの産品輸出によって財政を立て直すのに力を注ぎました。

7代義明の代では藩札発行をめぐり家中での抗争が激化します。

秋田騒動または佐竹騒動とも呼ばれています。

佐竹家略系図

戊辰戦争では新政府側に着き、列藩同盟軍と激しい戦いを繰り広げました。

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佐竹家の家紋は「日の丸扇」

 

 

佐竹義重の家紋は「五本骨扇に月丸」というもの。よく見ると、扇に五本の骨が使われているのが解るでしょう。

なぜ五本骨扇に月丸を使うのか

佐竹氏がこの家紋を使用するようになった理由は、平家軍だった佐竹家が源頼朝に領地を没収された後に、頼朝とともに戦に出ようとしたときに「真っ白い旗が頼朝の軍と同じだった」ことから。

紛らわしいことを回避するために、旗の上に扇をつけたことがはじまりだそうです。

以後、佐竹家ではこの家紋を使っており、もちろん義重も使用していました。

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