【江戸幕府300藩】岩槻藩の家紋は大岡家の「大岡七宝・大岡越前守忠相定紋」|幕府の要人たちが藩主となった

現在の埼玉県さいたま市には、いくつかの「藩」が存在していましたが、その中に「岩規藩」という藩主が9つの家によりころころ変遷した藩があります。不安定的な藩でしたが、歴代藩主には幕府の要人も何人かいたようです。

今回は、「岩規藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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岩槻藩ってどんな藩だったの?

引用:wikipedia

岩槻藩の基礎情報

石高 2万3,000石
旧国 武蔵(埼玉県)
居城 岩槻城(さいたま市)
藩主 高力家~大岡家の9家
家紋名 大岡七宝・大岡越前守忠相定紋
江戸城控間 雁間
城主
爵位 子爵

岩槻藩の歴代藩主9家

高力家▶︎青山家▶︎阿部家▶︎板倉家▶︎戸田家▶︎松平(藤井)家▶︎小笠原家▶︎永井家▶︎大岡家

岩槻藩は9つの家によって支配されていました。

岩槻藩の藩主の変移

  • 初代藩主……高力清長 
  • 最後の藩主…大岡忠貫

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幕府の要人たちが藩主となった岩規藩

岩槻藩は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩規区)に存在し、藩庁を岩規城に置いていました。藩主がころころ変遷した藩ですが、最終藩主の大岡家の時代になるとようやく落ち着いたようです。では、岩規藩のおおまかな歴史について見てみましょう。

岩規藩の立藩と歴代藩主

岩規藩は、家康の関東入りの際に譜代の重臣として知られる高力清長が2万石を与えられる形で立藩しました。その後、8家もの家によって藩主が務められた岩規藩ですが、幕府の要人たちが歴代藩主となっていたことが特徴です。青山忠俊や阿部正次、大岡忠光などがその例で、岩規藩がとても重要視されていたことがわかります。

財政難と大岡家のよる安定した統治

ころころと藩主が変遷していった岩規藩は、途中財政難となりますが、最終藩主である大岡家の時代になると安定し、8代にわたり維新まで存続しました。

しかし、大岡家の時代にも3代藩主・忠要の時代に起きた天明の大飢饉や天災などによって財政は不安定に陥ることもありました。また、6代目藩主・忠固の時代には百姓一揆が起こるなど、問題も多々勃発していました。

その後は藩庁としていた岩規城の本丸が焼失する騒動もあり、岩規藩は破綻寸前でしたがなんとか存続し、戊辰戦争では新政府軍に与しました。そして廃藩置県により岩規藩は廃藩となり、のちに埼玉県へと編入したのでした。

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岩槻藩の家紋は大岡家の「大岡七宝・大岡越前守忠相定紋」

七宝とは仏教で、金・銀・瑠璃・瑪瑙・珊瑚・シャコ・水晶の7つを指します。紋としては円形を4つ重ねた連続模様です。 正倉院の所蔵品にも見られる文様で、七宝文様は平安時代に考案されたと言われています。そして、貴族の牛舎の紋として用いられるようになり、その後室町幕重臣の高師直が旗印に用いたことで家紋として定着しました。 四方に無限に広がる様子を描き、吉祥の意味を持ちます。この「四方」が「七宝」に変化していったとされています。 七宝紋には、陰七宝、七宝に花角、持ち合い三つ七宝などがあります。西日本各地で多く用いられ、使用者は武家では小堀氏や、藤岡支流の大岡氏などがあります。

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まとめ

岩規藩」は9つもの家が藩主となり不安定なものでしたが、歴代藩主の中には幕府の要人が多いという特徴がありました。不安定ながらもなんとか存続した岩規藩ですが、幕末期には藩庁を百姓一揆が起きたり、藩庁が焼失したりと何かと騒動の多い藩でありました。

埼玉県には他にも幾つかの藩が存在していましたので、是非いろいろな藩をチェックしてみてくださいね。

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