「信濃川」という川をご存知ですか?新潟県と長野県に流れる川で、日本一長い川です。この川を活かして藩政を築いた「飯山藩」という藩があります。現在の長野県飯山市に存在していました。
今回は、「飯山藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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飯山藩ってどんな藩だったの?
飯山藩の基礎情報
石高 | 2万石 |
旧国 | 信濃(長野県) |
居城 | 飯山城(飯山市) |
藩主 | 皆川家~本多家の7家 |
家紋名 | 丸に右離れ立ち葵 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
飯山藩の歴代藩主7家
飯山藩は7つの家によって支配されていました。
飯山藩の藩主の変移
- 初代藩主……皆川広照
- 最後の藩主…本多助実
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信濃川を活用し藩政を築いた飯山藩
藩は、信濃国水内郡(現在の長野県飯山市)に存在し、藩庁を飯山城に置いていました。歴代藩主の家は7つもあり、最終藩主の本多になるまではころころと短期間で変遷していました。信濃川が流れていたことで水関連の開発に注力し、藩政を築いたのが特徴です。
飯山藩の立藩と家康による改易
飯山藩は1603年、関ヶ原処分後に松平忠輝が北信濃を領した際、付属大名・皆川広照が入封し立藩しました。4万石で入封した広照ですが、徳川家康の怒りを買ったことで改易となります。
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飯山藩の歴代藩主とその歴史
するとその翌年、堀家が入封し飯山藩は再立藩しました。堀家の初代藩主・直寄は、新田開発や治水工事などに尽力し藩の基盤作りに努めます。飯山藩には信濃川(千曲川)があったことから、水関連の開発に力を入れた直寄ですが、越後国長岡藩に移封となり、藩主が佐久間家に変わります。
佐久間家の時代は3代で改易となり、翌年になると松平桜井家が入封し、飯山藩は2度目の再立藩となります。松平家の1代目藩主・忠倶と2代目・忠喬は、堀家の時代に力を入れていた新田開発や水路開発に尽力した他、税制の確率に注力し藩の財政を安定させました。
やがて松平家は武蔵国岩規藩へ移封となり、その2代で幕を閉じました。すると今度は永井家・青山家が藩主となり、安定することなくころころと変遷します。最終的には本多家が藩主となり、維新まで10代にわたり飯山藩を支配することとなります。
衝蜂隊の突撃を受けた飯山城
本多家の時代には、越後国高田藩方面から旧幕府軍の「衝蜂隊(しょうほうたい)」が飯山藩に侵入し、飯山を拠点にしようとしました。城下町に侵入した衝蜂隊は攻撃を繰り広げ、戦火に見舞われることとなったのです。
その後廃藩置県となり飯山藩は飯山県を経て、同年に長野県に編入することとなりました。
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飯山藩の家紋は本多家の「丸に右離れ立ち葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
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まとめ
「飯山藩」の歴史の前半は藩主がころころと変わり、あまり安定したものではありませんでしたが、最終藩主となる本多家が入封してからは10代にわたり支配し続けました。信濃川を活かし新田開発や水路開発に尽力した松平家の努力もあり、安定的な藩政を保った藩でした。
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