【江戸幕府300藩】飯野藩の家紋は保科家の「角九曜・並び九曜・平形九曜」|保科家のみが支配し続けた

家紋に星をモチーフとした「星紋/九曜紋」がありますが、丸●が円形に配置されているのが一般的です。けれども、千葉県にあった「飯野藩」の家紋は綺麗に整列した3×3の九曜紋が特徴的です。

今回は、「飯野藩」の歴代藩とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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飯野藩ってどんな藩だったの?

保科正貞 引用:wikipedia

飯野藩の基礎情報

石高 2万石
旧国 上総(千葉県)
居城 飯野陣屋(富津市)
藩主 保科家
家紋名 角九曜・並び九曜・平形九曜
江戸城控間 帝鑑間
陣屋
爵位 子爵

飯野藩の歴代藩主

▶︎保科家のみ◀︎

飯野藩は、10代にわたり保科家に支配され続けていました。

飯野藩の藩主の変移

  • 初代藩主……保科正貞 
  • 最後の藩主…保科正益

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保科家により10代続いた飯野藩

飯野藩は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市飯野)に存在していた藩で、藩庁を飯野陣屋に置いていました。藩主は保科家のみで、10代にわたり代々支配され続けていました。

保科家による飯野藩の立藩

飯野藩は、1648年に旗本の保科正貞が加増されたのをきっかけに立藩しました。正貞は元々7,000石を知行しており、大坂加番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などで1万石を加増され、1万7,000石の大名となりました。

正貞が死去してから、飯野藩は代々保科家によって受け継がれていくこととなります。

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飯野藩の石高の変遷

初代藩主の正貞の時代は、飯野藩の石高は1万7,000石でしたが、2代目・正景が正貞の養子である保科正英に2,000石を分与したことで1万5,000石となります。

やがて正景が大坂加番になると5,000石が加増され、石高は2万石となります。この後も歴代藩主の多くが大坂加番を勤め、最終藩主・正益は若年寄にまで栄進しました。

正益の謹慎処分と廃藩置県

最終藩主・正益は、戊辰戦争に際し徳川慶喜の女系と引き換えに新政府軍に与することを決めていましたが、親戚にあたる会津藩が新政府方への抗戦体制を崩さなかったため断念し、正益も謹慎処分となりました。

翌年には版籍奉還により知藩事となり、廃藩置県を迎え飯野藩▶︎飯野県▶︎木更津県▶︎千葉県と変遷していきました。

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飯野藩の家紋は保科家の「角九曜・並び九曜・平形九曜」

星は、運命を司るものとして信仰されてきました。決まった軌道で移動するため、狩猟や航海の際には位置がわかるものとして、農業では季節がわかるものとして古くから人々に活用されてきました。 星は文様として扱われるようになり、やがて家紋にも用いられるようになりました。 星といえば★型が現代では一般的ですが、当時の星模様は●で表されます。一つではなく複数の●で構成されたものが主流でした。武家の使用者として代表的なのは千葉氏で、月星紋を使用していました。星紋は全国的に広まって庶民の間でも用いられたそうです。 また、三つ星=勝ち星を表し、戦いに挑む武家の間でも人気の紋となっていました。

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まとめ

飯野藩」は10代にわたり保科家が支配し続け、安定した藩主を持った藩でした。藩によっては複数の家々が藩主を務めることもあるので、保科家の1家のみなのは珍しいことです。

使用家紋の「九曜」は大抵円形になっている家紋なので、3×3で均等に並んだデザインも珍しいものですよ。是非他の藩の使用家紋についてもチェックしてみってくださいね。

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