「水戸藩」は藩の中でも大きく有名なものですが、その水戸藩の藩下にあった小さな藩「常陸府中藩」がありました。はじめは水戸藩下ではありませんでしたが、天領になったり財政難になったりと苦労し、最終的に水戸藩下でなんとか存続していた藩でした。
今回は、「常陸府中藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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常陸府中藩ってどんな藩だったの?
常陸府中藩の基礎情報
石高 | 2万石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 府中陣屋(石岡市) |
藩主 | 六郷家~松平(水戸)家の3家 |
家紋名 | 守山三つ葵 |
江戸城控間 | 大広間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
常陸府中藩の歴代藩主3家
常陸府中藩は、3つの家が藩主を務めていました。立藩時の六郷家はわずか1代でしたが、松平水戸家では10代にわたり統治され続けました。
常陸府中藩の藩主の変移
- 初代藩主……六郷政乗
- 最後の藩主…松平頼策
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水戸藩下でなんとか存続していた常陸府中藩
常陸府中藩は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在していた藩で、「石岡藩」や「長沼藩」とも言われていました。また、藩庁は府中陣屋に置いていました。
関ヶ原の武功により常陸府中藩が立藩
常陸府中藩の立藩となったのは1602年、関ヶ原の戦いでの功績を讃えられ、出羽の豪族・六郷政乗が1万石を与えられて立藩しました。1623年になると政乗は出羽本荘藩へ転封となり、皆川家の皆川広照が2代目藩主となります。
皆川家は常陸府中藩の藩主として3代続き、3代目の成郷の時代に皆川家は改易となります。そしてしばらくの間、常陸府中藩は天領となるのです。
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再立藩するも水戸藩の藩下に
天領となった後、1700年になると松平水戸家により常陸府中藩は再度立藩となります。この時の藩主は徳川頼房の5男・松平頼隆で、幕府から新たに常陸国・陸奥国において2万石を加増されたため、府中に陣屋を置いて府中藩としたのでした。
初代藩主の六郷家は1代、次の皆川家は3代でしたが、松平水戸家は10代にわたり明治維新まで藩主が務められました。しかし実質的には水戸藩の藩下にある小藩として成立していたようなもので、完全に独立し繁栄していたわけではありませんでした。
このように、水戸藩下でなんとか成立していた藩に「宍戸藩」があります。常陸府中藩と同様小藩で、藩の財政はあまり良いものではありませんでした。
宍戸藩についてはこちらをチェック!
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廃藩置県により石岡県へ
水戸藩藩下でなんとか継続していった常陸府中藩ですが、1869年の版籍奉還で石岡県になり、1871年の廃藩置県で石岡藩は廃され、石岡県となりました。
府中陣屋跡は現在小学校に
常陸府中藩の藩庁であった府中陣屋の跡地は、現在石岡小学校の敷地となっています。かつてはお堀もありましたが、ほとんど埋め立てられ、土塁の一部のみ少し残っています。
藩によっては現在も城や陣屋が残っており、一般公開されていたり「日本100名城」や「続日本100名城」に選定されていたりとそれぞれなので、是非他の藩の藩庁もチェックしてみてくださいね。
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常陸府中藩の家紋は松平(水戸)家の「守山三つ葵」
葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。
詳しくはこの記事をチェック!
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【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう
まとめ
「常陸府中藩」は、3つの家が藩主となっていた現在の茨城県に存在していた藩ですが、実質的には水戸藩の藩下でなんとか存在していた小さな藩でした。
財政難に陥ると、そのようにサポートしてもらう形でなんとか継続していた藩も多いようです。こちらのサイトでは色々な藩の歴史や財政事情についてご紹介していますので、是非チェックしてみてくださいね。
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