家紋の中で「菊」は天皇も使用している高貴な家紋の一つですが、その菊紋を家紋としていた家に「青山家」があります。青山家は美濃国にあった「郡上八幡藩」の藩主を7代にわたり務めました。
今回は、「郡上八幡藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。
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目次
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郡上八幡藩ってどんな藩だったの?
郡上八幡藩の基礎情報
石高 | 4万8,000石 |
旧国 | 美濃(岐阜県) |
居城 | 八幡城(郡上市) |
藩主 | 遠藤家~青山家の4家 |
家紋名 | 青山菊 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
郡上八幡藩の歴代藩主4家
郡上八幡藩は4つの家によって支配されていました。
郡上八幡藩の藩主の変移
- 初代藩主……遠藤慶隆
- 最後の藩主…青山幸宜
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戊辰戦争では2つに分裂し混乱した郡上八幡藩
郡上八幡藩は、美濃国(現在の岐阜県郡上市)に存在し、藩庁を八幡城に置いていました。4つの家が藩主となりましたが、最終藩主の青山家が入封するまでは年貢増長に対する百姓らの一揆にみまわれ、藩政は落ち着いたものではありませんでした。
郡上八幡城の立藩
織田家・豊臣家の家臣で旧領主の遠藤慶隆は、秀吉に反抗を示して郡上を追われていましたが、関ヶ原の田高で東軍につき旧領を回復し、2万7,000石を与えられる形で郡上八幡藩の初代藩主となりました。この藩は「郡上藩」や「八幡藩」と言われることもあります。
遠藤家の3代藩主・常友の時代には八幡城を大規模改修し、遠藤家は「城主格」から正式な「城主」となりました。
歴代藩主とその歴史
遠藤家が移封となったことで井上家が郡上八幡藩へと入封します。しかし井上家はわずか2代で丹波国亀山藩へと移封となり、それに代わり金森家が入封しました。
金森家の時代には年貢増長に反対する百姓により一揆が勃発し、その期間は4年にも及んでいます。更には、白山中居人やの指導権をめぐる「石徹白騒動」までもが起き、金森家の2代目藩主は所領を没収・改易となって盛岡藩へと身を預けられる事態となりました。
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最終藩主・青山家による支配
そして最終藩主となる青山家が丹後国宮津藩から4万8,000石で入封します。ここから7代にわたり青山家によって支配され続けることとなります。青山家の6代藩主・幸哉は、日本で最初に「メートル法」を紹介したことで知られる西洋度量考の編者として有名です。
戊辰戦争の際には新政府側に恭順しましたが、家老の中には旧幕府側に味方するものがいたりと藩は2つに分裂して混乱となりました。やがて廃藩置県を迎えると郡上八幡藩は廃藩、郡上県▶︎福井県へと変遷していきました。
郡上八幡城は「続日本100名城」に選定
諏訪藩の藩庁であった郡上八幡城は2017年に「続日本100名城」に選ばれ、現在は郡上市の観光スポットとなっています。
「日本最古の木造再建城」とされ、11月初旬から中旬には紅葉に囲まれた城がみられる絶景の場所となります。夜間にはライトアップされるので、昼夜雰囲気の異なる景色を見ることができますよ。
- 時代・地域の代表であること
- 著名な歴史の舞台であること
- 優れた文化財・史跡であること
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郡上八幡藩の家紋は青山家の「青山菊」
菊は中国から平安時代中期に渡来した植物で、家紋としては花弁の枚数が異なるものや茎、葉も混ぜたものなど多彩なデザインがありました。 藤原氏の時代から用いられ、後鳥羽上皇が愛したことから次第に天皇家の家紋として定着し、臣下に下賜されました。 室町時代には武家の間でも使われるようになりましたが、明治時代には権威が高まったことにより天皇家以外の使用は法令で禁じられました。 菊紋の使用者は多く、木戸孝允、楠木正成、西郷隆盛などがいます。西郷隆盛は功績によって明治天皇から家紋を下賜され、天皇を表す中央の菊に補佐せよとの意味が込められた葉が左右に配置された「抱き菊の葉に菊」となっています。
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まとめ
「郡上八幡藩」は途中、百姓による一揆や神社の主導権をめぐる騒動により落ち着きのない藩ではありましたが、青山家が入封するとそこから7代にわたし郡上八幡藩を支配したのでした。
使用家紋の「菊」は現在は天皇の家紋にもなっている権威ある紋ですので、是非関連記事もあわせてチェックしてみてくださいね。
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