【江戸幕府300藩】大聖寺藩の家紋は前田家の「大聖寺梅鉢」|加賀藩の支藩として富山藩と共に立藩

現在の石川県にあった加賀国には、大きな加賀藩の支藩として「大聖寺(だいしょうじはん)藩」という藩がありました。前田家によって14代続いた藩です。

今回は、「大聖寺藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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大聖寺藩ってどんな藩だったの?

引用:asahinet

大聖寺藩の基礎情報

石高 7万石
旧国 加賀(石川県)
居城 大聖寺陣屋(加賀市)
藩主 前田家
家紋名 大聖寺梅鉢・大聖寺前田梅鉢・瓜実梅鉢
江戸城控間 大広間
城主
爵位 子爵

大聖寺藩の歴代藩主

▶︎前田家のみ◀︎

大聖寺藩は、前田家によって支配されていました。

大聖寺藩の藩主の変移

  • 初代藩主……前田利治 
  • 最後の藩主…前田利鬯

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加賀藩の支藩として富山藩と共に立藩した大聖寺藩

大聖寺藩は、加賀国江沼郡(現在の石川県加賀市)に存在し、藩庁を大聖寺陣屋に置いていました。前田家によって14代にわたり支配された大聖寺藩は、加賀藩の支藩です。途中、大聖寺藩の支藩として大聖寺新田藩を立藩しますが大きな事件を起こし1代で廃藩となってしまったのでした。

大聖寺藩の立藩と所領の歴史

大聖寺藩は加賀藩の支藩です。江戸時代初期は加賀藩の城代が当地を領していましたが、一国一城令により大聖寺城は廃城となりました。

加賀藩の2代藩主・前田利常が隠居する際、次男に富山10万石・3男の利治に大聖寺7万石を与え、ここで富山藩と大聖寺藩が支藩として同時に立藩しました。本藩である加賀藩の歴史については下記の記事でチェックしてみましょう。

大聖寺新田藩の立藩と事件

大聖寺藩は14代にわたり前田家に支配された藩ですが、3代藩主・利直は弟の利昌に新田1万石を分け与えて「大聖寺新田藩」を立藩させました。

がしかし、大聖寺新田藩の藩主となった利昌が柳本藩の織田秀親を刺殺する事件を起こし、利昌は切腹。大聖寺新田藩の領地は大聖寺藩に戻されたのでした。

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大聖寺藩の家紋は前田家の「大聖寺梅鉢・大聖寺前田梅鉢・瓜実梅鉢」

梅は、万葉集の中で8世紀になってから歌が見られようになったため、7世紀後半までに大陸に渡った遣隋使や遣唐使、僧侶が苗を持って帰り、その後普及したものと考えられています。万葉集が編纂された奈良時代のお花見というと桜ではなく梅でした。 日本では奈良時代にはすでに紋様として使われていました。また、梅と云えば天神様と関わりが深く、たいていの天神様の境内には梅が植えられています。 梅の紋様には、大別して2つあり、写実的に梅の花を表現した梅花紋と、幾何学的に表現した梅鉢紋があります。 戦国時代には美濃の斎藤氏などが梅紋を使用し、徳川時代には前田氏、松平氏など多くの家が使用していました。

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まとめ

大聖寺藩」は加賀藩の支藩として立藩し、前田家によって14代にわたり支配されました。途中大聖寺新田藩という支藩を立藩するも、藩主が刺殺事件を起こし切腹となる大きな騒動があり廃藩となりました。

藩によってそれぞれ特徴的な出来事があるので面白いですよ。是非他の藩についてもチェックしてみてくださいね。

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