茨城県のかすみがうら市には、かつて小さな「志筑(しづく)藩」という藩がありました。石高にすると8,500石からのスタートで、大きく栄た藩ではありませんでしたが、本堂家によって代々受け継がれていった安定的な藩です。
今回は、「志筑藩」の成り立ちや歴史・輩出した新撰組のメンバーについてご紹介いたします。
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目次
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志筑藩ってどんな藩だったの?
志筑藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 志築陣屋(かすみがうら市) |
藩主 | 本堂家 |
家紋名 | 八つ石・八つ石畳・本堂石畳 |
江戸城控間 | 柳間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 男爵 |
志筑藩の歴代藩主
志筑藩は、10代にわたり本堂家に支配され続けていました。
志筑藩の藩主の変移
- 初代藩主……本堂茂親
- 最後の藩主…本堂親久
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志筑藩は1万石未満の小さな藩
志筑藩は、常陸国(現在の茨城県かすみがうら市)に存在していた藩で、藩庁を志筑陣屋に置いていました。8,500石からスタートし、2代目からは8,000石の小さな藩でしたが、本堂家によって藩主は代々受け継がれ、最終的には1万石となります。
志筑藩は、幕末期に活躍した新撰組の隊士を複数名輩出したことでも知られています。
本堂家が志筑の領主に
当地は元々、有力大名の佐竹家が有していました。それが関ヶ原処分によって転封したことにより、出羽の小豪族であった本堂茂親が8,500石与えられる形で領主となります。
茂親は旗本・交代寄合となり、1645年には志筑陣屋を構えたのでした。ここではまだ正式な志筑藩の立藩ではありませんでしたが、代々本堂家によって領主が務められていきました。
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志筑藩の正式な立藩
その後、志筑藩が正式に立藩となったのは維新後の石直し(こくなおし)後のことでした。新田分を加え1万110石となり、ようやく1万石を超えました。
初代・茂親の際には8,500石でしたが、2代目・栄親が弟の親澄に5,000石分け与えたため、8,000石となっていました。そのため、志筑藩の石高の変遷は、8,500石▶︎8,000石▶︎1万石となっています。
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新撰組隊士を輩出した志筑藩
志筑藩は、幕末に活躍した新撰組の隊士・伊藤甲子太郎と鈴木三樹三郎兄弟を輩出したことでも知られています。
伊藤甲子太郎の歴史や、新撰組の主要メンバーについての詳細は下記記事で確認してみましょう。メンバーそれぞれが使用していた家紋もご紹介しています。
詳しくはこの記事をチェック!
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志筑藩の家紋は本堂家の「八つ石・八つ石畳・本堂石畳」
家紋に用いられる石は、丸い石ではなく石畳に使うように四角い石をしています。石畳は古くから神社に使われることが多かったため、神職の家系の家紋に用いられ、「神の子孫」「永遠の象徴」という意味も込められていました。 石紋が用いられるようになったのは平安時代です。様々な配列で石を並べた石紋は幾何学模様にも見え、市松のように連続して並んだものは「霰(あられ)」と呼ばれていました。そして、徳川期に佐野川市松という歌舞伎役者が衣装に用いたことで「市松模様」という名で広まりました。 使用家は関東地方を中心に相模の土屋氏、梶原氏などがあります。それ以外では岩手県や青森県などの東北地方、長野県や静岡県などです。
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【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう
まとめ
「志筑藩」は1万石未満の小さな藩ではありましたが、本堂家によって代々受け継がれ、藩主は非常に安定的であったことがわかりました。
新撰組のメンバーを輩出したというのは珍しい特徴ですね。初めて名前を知った方もそうでない方も、是非別途の新撰組の紹介記事で歴史や使用家紋についてチェックしてみましょう。家紋は人それぞれ全て異なるので、眺めているだけでも面白いですよ。
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