現在の群馬県に存在していた藩の一つに「安中(あんなか)藩」があります。安中藩は特に学問を奨励したことが特徴で、現在もある同志社大学の創始者を輩出しました。
今回は、「安中藩」の歴代藩主やその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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安中藩ってどんな藩だったの?
安中藩の基礎情報
石高 | 2万石 |
旧国 | 上野(群馬県) |
居城 | 安中城(安中市) |
藩主 | 井伊家~板倉 |
家紋名 | 板倉巴・九曜巴 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
安中藩の歴代藩主6家
安中藩は6つの家によって支配されていました。
安中藩の藩主の変移
- 初代藩主……井伊直勝
- 最後の藩主…板倉勝殷
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学問奨励に尽力した安中藩
安中藩は、上野国(現在の群馬県安中市)に存在し、藩庁を安中城に置いていました。複数の藩主によって支配されていましたが、板倉家が2度目の入封をするとそのまま維新まで支配し続けることとなります。歴代藩主は藩政を良くしようと尽力していましたが、中でも特に学問に力を入れていました。
安中藩の立藩と基盤硬め
安中藩は家康時代からの重臣である井伊直政の死後、その嫡男である直継(直勝)が3万石を分与される形で立藩しました。この間に直継は直勝と名を改めました。直勝は城下町の整備など藩の基盤作りに尽力し、やがて子の直好に譲り隠居します。
その後直好が転封となると水野家の水野元綱が入封し、検地を行い幕政の基礎を硬めます。しかし水野家の2代目藩主の妻が傷害事件を起こしたことにより領地は没収、信濃松本藩の預かりの身となりました。
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再立藩と安中藩藩主の数々
水野家から没収となった当地はそれからわずか1ヶ月後、堀田家の堀田正俊が入封したことにより再び復活します。そこから転封と入封が繰り返され、堀田家▶︎板倉家▶︎内藤家と安中藩の藩主は変遷していきます。
そして板倉家が2度目の藩主として入封すると、藩校「造士館」を設立し、藩内の学問の奨励に尽力しました。当時の5代目藩主・勝明は学問藩主と言われたほどでした。
財政難と廃藩置県
学問を中心とした尽力により安定していた安中藩ですが、天明の大飢饉が起こり、藩は財政難と領地荒廃に苦しみます。また、幕末に勃発した「赤報隊事件」の舞台も、ここ安中藩でした。やがて廃藩置県を迎えると、安中藩は安中県を経て群馬県に編入となりました。
安中藩出身者にはこの人物も!
引用:wikipedia
安中藩の出身者として有名な人物には、同志社大学(かつての名:同志社英学校)を創設した新島襄(にいじま じょう)がいます。
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安中藩の家紋は板倉家の「板倉巴・九曜巴」
巴は古代から世界各国に似たような文様があり、発祥は定かではないものの日本では縄文時代から存在していました。 巴は元々弓を弾く際に腕を保護するための武具で、それが後に渦を巻く文様として浸透しました。文様として使われ始めたのは平安時代で、戦国時代には武家によって多く使用されます。特に現在の栃木県である下野宇都宮の一族に多用されていました。そして江戸時代になると約350の家が巴紋を使用し、全国各地で見られるようになります。 巴紋の種類は豊富で、渦を巻く向きの違いや巴の数、大きさなどに違いがあります。具体的には右一つ巴、左渦巻き巴、右五つ巴、台巴などです。人気の家紋であるため、使用者は多数います。
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まとめ
「安中藩」の数々の藩主やその歴史についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?特に学問の奨励に尽力した安中藩ですが、その結果として同志社大学の創設者である新島襄を輩出しました。
このように藩によっては有名な人物を生み出したところもあるので、是非いろいろな藩についてチェックしてみてくださいね。
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