伊達政宗の父・伊達輝宗を二本松城主畠山義継が拉致したことがきっかけで起こった『人取手橋の戦い』です。
さまざまな思惑と背景が重なり合い、現在の福島県本宮市で起こった合戦になります。
今回はそんな『人取手橋の戦い』を家紋と共に見ていきます。
●1分で分かる人取橋の戦い
1585年8月、伊達政宗が塩松領に攻めて領土を治めると、二本松城主畠山義継にも攻撃を行います。
義継は抵抗しましたが伊達政宗の父である輝宗の斡旋を受けて降伏しました。
同年10月、義継は輝宗を拉致して逃亡します。この拉致は宮森城の会談中に起こり、伊達家に衝撃が起こります。
伊達家はすぐに追っ手を向かわせますが、この追っ手が義継と輝宗を共に討ってしまいます。※諸説あり
弔い合戦をうたった伊達正宗は約7千人の兵を率いて二本松へ出陣。一方で畠山家は伊達家に反旗を翻す南奥諸大名に救援を要請すると、連合軍を組み伊達政宗を迎え撃ちます。
その数は3万人という数でした。連合軍は伊達政宗を追い込みますが、辛くも逃げ切りを許してしまい伊達家に致命傷を負わせるまではいきませんでした。
さらに、連合軍内部でも不穏な動きがあり、連合軍は解散。結果的には連合軍の勝利となりましたが大きな戦果を挙げるまでには至りませんでした。
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目次
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畠山氏を攻める伊達政宗
1585年8月、伊達政宗は二本松城を攻撃し陥落させると、そこで無慈悲な殺戮作戦を強行してしまい周辺国の怒りを買ってしまいます。
さらに、関東進出まで仄めかした伊達政宗は東北では異端児とされていました。
畠山吉継に父を人質にとって逃げられる政宗
そんな中、1585年10月に宮森城で畠山吉継と伊達政宗の父である輝宗が会談を行っている最中、畠山吉継が輝宗を拉致して逃亡を計ります。
なぜ、畠山吉継が輝宗を拉致したかは分かっていませんが、この動きを知った政宗が追っ手を派遣します。
諸説ありますが、追っ手が畠山吉継と輝宗を共に討ってしまい両者ともに亡くなってしまいます。
政宗は父を拉致し、死なせた畠山氏へのと弔い合戦を大義名分に畠山家は当主を殺されてしまったことへの大義名分で敵対関係となります。
佐竹義重などが同盟を結ぶ
伊達政宗の動きを心良く思っていなかった南奥諸大名は、畠山氏の要請もあり次々に同盟を結びます。 その中には常陸国の大名・佐竹義重の名もありました。
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人取橋の戦いへ
南奥諸大名連合軍(武将)
佐竹義重、小野崎義昌
伊達政宗は7,000人の軍勢を率いて、出陣します。 一方で、畠山氏の要請を受けた南奥諸大名は畠山家の跡継ぎを筆頭に連合軍を組んで伊達政宗を迎え撃ちます。 その数はおよそ3万人にもの軍勢になりました。
政宗軍7000人に対して佐竹義重率いる30000人の連合軍
両軍の睨みあいは続いていき、ついに1587年11月17日瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突しました。
連合軍(戦力約30,000人) | 伊達軍(戦力約7,000人) | |
大将 | 佐竹義重 | 伊達政宗 |
家紋 | 五本骨扇に月丸 |
竹に雀 |
家紋解説 |
源平時代、源頼朝の奥州征伐に佐竹氏の祖先が加わると源氏のシンボルであった白旗に扇を加えました。その後、佐竹氏は扇に月を加えたことによって「五本骨扇に月丸」の家紋ができあがりました。 |
「仙台笹」とも呼ばれている二匹の雀が中央で向かい合っている家紋です。 伊達政宗の叔父にあたる伊達実元が越後の上杉家の養子になる際に譲り受けたものを家紋としたことが由来とされています。 |
政宗の家臣・鬼庭佐月斎が捨て身の奇襲
4倍以上の戦力差を前に、伊達軍は戦局が良くなっていきません。連合軍は”数の力”を武器に伊達本陣まで攻め込むと、伊達政宗に矢1筋・銃弾5発を浴びせます。 完全に敗走への道を走ることとなった伊達軍は、当主である伊達政宗を生かすべく奔走します。
そんな中、伊達政宗の家臣である鬼庭佐月斎が殿を務めて政宗が逃げる時間を稼ぐと、鬼庭佐月斎は敵軍のど真ん中に突入します。 最期は壮絶な戦いの末、鬼庭佐月斎は討ち死にしました。
命からがら逃げ伸びた政宗
鬼庭佐月斎の決死の覚悟を受け取った政宗は命からがら逃げ切ります。伊達軍勢は壊滅の危機を迎えながらも、本宮城まで後退したことで難を逃れたのでした。連合軍はここから伊達軍を追撃を行うことはなく撤退していきます。
理由は伊達軍を「人取橋の戦い」で撃退した夜、佐竹家の部将・小野崎義昌が家臣に謀反を起こされ殺されてしまう事件が発生したのに加え、佐竹家の本国でも北条方から攻撃を受けるとの報告が入ったため佐竹軍が撤退したからです。
この後、伊達政宗は連合軍と和睦を結び、「人取橋の戦い」は終結しました。
まとめ
いかがでしたか?連合軍の佐竹氏の撤退がなければ、伊達家は壊滅していたかもしれません。政宗を守るために盾となった鬼庭佐月斎の生き様は素晴らしいものですね。「人取橋の戦い」で敗れた伊達政宗はこの戦いで着用していた具足を生涯大切にしていたようです。その証拠に具足は死後、伊達政宗のお墓に副葬されています。以上、伊達政宗に大きな影響を与えた「人取橋の戦い」でした。
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