羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下人への道を大きく切り開いた「賤ヶ岳の戦い」。
日本史でも有名な秀吉の策略「美濃大返し」はこの戦いで生まれました。
今回はそんな「賤ヶ岳の戦い」の豊臣家と柴田家の家紋と共に見ていきます。
●1分で分かる賤ケ岳の戦い
織田信長の死後、天下統一への道へ織田家の家臣達は”我こそは”と名乗りを上げていました。
その代表格がのちの天下人である羽柴秀吉と織田家の重鎮である柴田勝家でした。
二人の考えは大きくすれ違い、ついに近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳で戦いに至ります。
秀吉の策が当たり、柴田勝家は敗走。秀吉は織田家に仕えていた家臣を従える結果となり、天下人への道が開けることとなったのです。
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目次
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信長の跡継ぎを決める清須会議
三谷幸喜監督によって映画化もされた『清洲会議』。明智光秀に謀反を起こされるまで、天下人は時間の問題と思われていた信長の影響力は大きく、信長亡き後の誰が織田家を取り仕切るのかを決める重要な会議でした。
大げさではなくその後の日本の行く末も決めるほどの影響力を持っていました。
そして、この清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家は対立を深め、賤ヶ岳の戦いへと至っていくのです。
信長の三男・信孝をおす柴田勝家
織田家の筆頭家臣であった柴田勝家は信長の三男・信孝を後継者に推していました。柴田勝家は越後の上杉謙信を相対する部隊を率いており、織田家の家臣の中での発言力は大きなものでした。
信長の孫・三法師をおす豊臣秀吉
一方で秀吉は本来であれば織田信長の正当な後継者出会った織田信忠の嫡男・三法師(秀信)を推します。
「絵本太閤記」に描かれている三法師を肩に乗せた秀吉は有名ですね。
秀吉は信長に謀反を起こした明智光秀を天王山の戦いで打ち破ったことにより、織田家の家臣の中で発言力を強めていた時期でした。
跡継ぎは三法師に決定
結果的に後継は三法師に決定しました。
秀吉は清洲会議に出席した他の二人の武将である丹羽長秀、池田恒興の了承も取り付けたため、柴田勝家も秀吉の案を飲まざるをえませんでした。
信孝を降伏に追いやった秀吉
清洲会議後に柴田勝家の陣営と秀吉の陣営は基盤を築こうと各地の武将に協力体制を仰ぎます。
秀吉と勝家はその後、和睦を結びます。しかし、この和睦が勝家の計略であることを見抜いた秀吉はこれを反故します。
そして、秀吉は1583年1月に美濃に進駐し、岐阜城で主を務めていた織田信孝を降伏させました。
賤ケ岳での戦い
秀吉軍(武将)
羽柴秀吉、羽柴秀長、丹羽長秀、織田信雄、黒田孝高、前野長康、中川清秀、加藤清正、福島正則、石田三成
柴田軍(武将)
柴田勝家、佐久間盛政、前田利家、三木自綱
秀吉のこうした動きを見た勝家は1583年2月末に近江に向けて出陣しました。
柴田勝家の軍勢は約3万。迎え撃つ秀吉の軍勢は約5万と推定されています。
互いにすぐには交戦をせずに、陣地を構築することに勤しみます。膠着状態が崩れたのは一度は降伏した織田信孝が秀吉に反旗を翻してからでした。
柴田軍が秀吉軍を攻撃
1583年4月、織田信孝が秀吉に反旗を翻して岐阜城下へ進出します。
秀吉は信孝に対処するため、美濃に進軍します。しかし、信孝に対処したことにより賤ケ岳に配置した兵が手薄になります。
この秀吉軍の動きを好機と見た柴田軍は秀吉軍を攻撃。秀吉軍の陣地の一つである大岩山砦を陥落させます。
52キロをわずか5時間で引き返した秀吉
信孝に対処するため、大垣城に入場していた秀吉は大岩山砦を陥落の報を聞き、軍をすぐに賤ヶ岳へ引き返すように号令を出します。
大垣から賎ヶ岳の距離は52キロ(13里)もの距離がありました。柴田軍は秀吉軍が戻ってくるのに半日はかかると考えていたところ、秀吉軍はなんと5時間で引き返してきました。
「美濃の大返し」と呼ばれるこの引き返しによって、柴田軍は混乱。
賤ヶ岳の戦いは秀吉軍優勢となっていきます。
賤ケ岳の七本槍が大活躍
この賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた七人の武将はのちに賤ケ岳の七本槍と呼ばれました。簡単に七本槍と呼ばれた武将を見ていきます。
脇坂安治 輪違いの家紋 | 片桐且元 矢が二本重となっている「片桐違い矢」の家紋 |
平野長泰 秀吉の行なった戦にほぼ参加している。家紋については不明 | 福島正則 沢鷹を使用した「福島沢鷹」の家紋 |
加藤清正 ヘビの目の形からとった「蛇の目紋」の家紋 | 糟屋武則 武運を司る神様として考えられている「三つ盛左三つ巴」の家紋 |
加藤嘉明 藤原氏が使用していたとされている「下り藤」の家紋 |
総崩れとなった柴田軍
柴田軍の前田利家が戦場を離れる
秀吉の予期せぬ大返しに柴田軍は総崩れになっていきます。しかし、柴田軍には頼れる武将がいました。その名は前田利家です。
秀吉軍の攻勢を見た前田利家は当然、戦に参戦するものと思われましたが、前田利家はまさかの戦線を離脱します。
一説には秀吉と前田利家の間にはすでに取り決めがされていたと考えられています。
前田利家の離脱を知った柴田軍の士気は一気に低下。秀吉軍に攻め込まれる形になり、柴田軍は敗走を余儀なくされました。
北ノ庄城へ逃げ込む勝家
敗れた勝家はその後、北ノ庄城へ逃げ込みますが、前田利家を先鋒とする秀吉軍に取り囲まれてしまい最後は妻であるお市の方と共に自害します。
そして、秀吉に反旗を翻した織田信孝も最後は自害の道を余儀なくされました。
まとめ
秀吉軍の「美濃の大返し」がなければ、歴史は変わっていたかもしれません。そして、前田利家を味方に引き込んでいた秀吉の策略は見事なものでした。
柴田勝家を倒した秀吉はこの後、ご存知のように天下人へ加速していきます。以上が、賤ケ岳の戦いでした。
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