山崎の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.15

 

「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀ですが、わずか11日後に「山崎の戦い」で羽柴秀吉に討たれました。秀吉が信長の仇を討ち、そして天下へと駆け上がっていくきっかけになった「山崎の戦い」について記述をしてみました。

●1分で分かる山崎の戦い

・「中国大返し」で京に戻った秀吉

「本能寺の変」が起きた時、秀吉は中国地方で備中高松城攻めをしていました。信長の死を聞いた秀吉は、毛利との講和をまとめて「中国大返し」をして京に戻ります。

・わずか6日で戻ってきた秀吉に、明智光秀はびっくり!

「中国大返し」をしてわずか6日後、秀吉は京都に戻ります。あまりに早く秀吉が戻ってきたため、光秀は慌てて京都の「淀川」「天王山」の間にある「山崎」というところに陣を構えました。

・戦場を見渡せる「天王山」に陣をはった黒田官兵衛…「山崎の戦い」が勃発

秀吉の軍師・黒田官兵衛は、山崎の地を見渡すことができる「天王山」に陣を張りました。秀吉はふもとに陣を張り、とうとう「山崎の戦い」がはじまります…。

スポンサードリンク


秀吉による中国大返し

織田信長が「本能寺の変」で討たれたとき、秀吉は中国地方で毛利攻めをしている最中でした。毛利家の家臣・清水宗治が治める備中高松城を水攻めで攻撃していた秀吉ですが、信長が光秀に討たれたことを知ると、毛利と講和して明智光秀討伐にいくことを選択します。信長の死を隠したまま、秀吉は毛利軍と交渉。清水宗治の切腹を見届けると、そのまま「中国大返し」をして明智光秀がいる京都へ舞い戻りました。その日にち、わずか6日。秀吉がどれだけ急いだのかが解りますね。

・太閤桐

秀吉と言えば、天皇から下賜されて使い始めた「五七の桐紋」が有名です。しかし、その「五七の桐紋」を家臣に下賜し過ぎてしまったため、自分しか使うことができない「太閤桐」という家紋を作ったのです。「五七の桐」と比べると、形が全く違いますよね。

・桔梗紋

明智光秀と言えば「桔梗紋」です。信長の家臣だった光秀の裏切りは、各国の武将を驚愕させました。そこから光秀の「桔梗紋」は裏切りの象徴のような扱いになり、桔梗紋を使用していた武将たちが他のものに変えたとも言われています。

軍師・黒田官兵衛の活躍

秀吉の明智光秀討伐に同行していた黒田官兵衛は、「天王山」という山に目を付けます。ここの山からは、明智光秀が軍を配置した山崎が良く見渡せました。軍師として、相手の動きをより良く見ることができる場所に陣を構えることに成功したのです。秀吉は、その天王山のふもとに陣を構えました。
豊臣軍(約40,000人) 明智軍(約16,000人)
大将 豊臣秀吉 明智光秀
家紋 太閤紋 桔梗紋
家紋解説
 

山崎の合戦開始

陣を構える光秀軍

秀吉がわずか6日で戻ってきたことを知った光秀は、驚愕します。光秀は、急いで京都の「淀川」というところと「天王山」というところにあった「山崎」という場所に陣を張り、秀吉の軍勢を迎え討とうとしました。

明智軍を横から攻めた豊臣軍

小雨が降り続く中、最初に動いたのは明智光秀でした。秀吉は、その光秀の軍勢の横から襲い掛かり、明智光秀軍の動きを封じました。

正面から高山右近

さらに、明智軍の正面から高山右近が襲い掛かります。横と正面から攻撃された明智光秀軍は総崩れとなり、敗戦を覚悟した明智光秀はその場から撤退します。

●総崩れになった明智軍

最期は農民にやられた光秀

秀吉の軍に敗北した明智光秀は、滋賀県にある「坂本城」というところを目指して山の中を進んでいました。しかし、そこを農民に見つかり、殺されてしまいます。あの織田信長を破った武将にしては、あまりに寂しい結末ですね。こうして、織田信長の仇を討った羽柴秀吉は織田家家臣の中での立場を強固なものにしていくのです…。

まとめ

こうして「山崎の戦い」は秀吉の勝利に終わるのですが、そもそもどうして明智光秀は織田信長を討ったのでしょう?非常に有名な「本能寺の変」ですが、光秀が信長を討った理由には多くのものがあり、現在まで謎とされてきました。

ところが、近年になり「有力」と言われる説が飛び出してきました。2014年岡山県にて、明智光秀の家臣・斉藤利三に四国の武将・長曾我部元親が出した手紙が発見されます。そこには、元親が「信長に従い、讃岐と伊予を渡す」という内容が書かれていました。信長は、元親が四国を治めることに同意していたのですが、後になってそれを撤回。伊予と讃岐の二国を渡すようにと元親側に伝えていました。もちろん、それを聞いた元親は激怒。ここで、明智光秀は信長と長曾我部の間に挟まれてしまったのです。

しかし、当時の信長に逆らうという道もなく、元親側は信長の言うことを聞き入れると手紙を出しました。でも、おそらくこの手紙は信長に届いていなかったのでしょう。信長は四国征伐の準備をはじめてしまいました。これを見た光秀が、元親を守るために行動を起こしたのではないか?という説が出てきたのです。この説が本当であれば、裏切り者と言われた明智光秀の行動には、「長曾我部を守りたい」という正義があったことになります。果たして、真相はどうなのでしょう。

他にもあるぞ!超人気家紋コンテンツ
「苗字から家紋」の画像検索結果 「10大家紋」の画像検索結果
「戦国武将家紋まとめ」の画像検索結果
関連画像