現在の愛知県である三河国には、8回にわたり藩主がころころと変遷した「西尾藩」という藩がありました。1代で移封となることとが多く、2度も廃藩となるなどして不安定な藩でしたが、最終的に松平家が入封すると藩政は落ち着き始めました。
今回は、「西尾藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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西尾藩ってどんな藩だったの?
西尾藩の基礎情報
石高 | 6万石 |
旧国 | 三河(愛知県) |
居城 | 西尾城(西尾市) |
藩主 | 本多家~松平(大給)家の9家 |
家紋名 | 蔦・姫蔦 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
西尾藩の歴代藩主9家
西尾藩は9つの家によって支配されていました。
西尾藩の藩主の変移
- 初代藩主……本多康俊
- 最後の藩主…松平乗秩
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2度廃藩し藩主変遷の激しい西尾藩
西尾藩は、三河国(現在の愛知県西尾市)に存在し、藩庁を西尾城に置いていました。藩主の変遷が激しく、9つの家が藩主となりましたが、最終的に松平家が入封すると5大代にわたり明治維新まで支配しました。
西尾藩の立藩と1度目の廃藩
関ヶ原の戦いの後、豊臣家恩顧の大名は家康によって西国に移封され、下総国小篠藩から本多家の本多康俊が2万石で入封したことをきっかけに西尾藩が立藩しました。
本多家の入封から松平大給家▶︎本多家と、移封と入封により藩主が入れ替わります。いずれも1代のみで次の家へと変遷していきました。しかし本多家も移封により西尾藩は廃藩、天領となりました。
西尾藩の再立藩と2度目の廃藩
廃藩・天領となってから2年が経過した1638年、下野国山川藩から太田家の太田資宗が入封したことにより西尾藩は再度立藩となります。
資宗は西尾城と城下町の改築に尽力しましたが、完成間近の時期になって移封となり、西尾藩は悲しくも2度目の廃藩となりました。
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3度目の立藩と西尾城の完成
2度目の廃藩となってから2年が経過した1646年、上野国安中藩より井伊家の井伊直好が入封したことにより西尾藩は再度立藩します。直好は井伊直政の孫にあたる人物で、建築途中となっていた西尾城を完成させました。
しかし城が完成すると移封となり、そこからは増山家▶︎土井家▶︎三浦家と藩主が変遷しました。藩主がころころと変わった西尾藩ですが、出羽国山形藩から松平大給家が入封するとようやく落ち着くこととなります。
松平家が維新まで支配
最終藩主の家となった松平家の歴代藩主には、老中など幕府の要職に就くものが多くいました。しかし幕閣入りしたために松平家の財政は困窮した時期が多くかったのです。
戊辰戦争の際には、佐幕派と尊皇派が分裂して大論争となる騒動もありましたが、尊皇派が大半を占め新政府に与することとなりました。やがて廃藩置県を迎えると西尾藩は廃藩となりました。
西尾藩の家紋は松平(大給)家の「蔦・姫蔦」
蔦はブドウ科のつる性落葉木で、十大家紋の一つでもあります。蔦の文様は、平安時代から絵巻物や調度品に多く用いられるようになり、優美な姿と繁殖力が強いことから家紋として人気が出ます。 蔦はつるが特徴的な植物ですが、蔦紋は葉の部分が描かれることが多く、丸に蔦、鬼蔦、結び蔦、割り蔦、丸に三つ鬼蔦、菱に覗く蔦などバリエーションが豊富です。 使用地域は石川県新潟県、富山県などの北陸地方に多く、八代将軍吉宗が好んだ家紋として有名です。他には松平松井氏、松平大給氏、松永久秀、藤堂氏、椎名氏、高安氏などが使用しました。
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まとめ
「西尾藩」は藩主の変遷が激しく、入封となっても十数年で移封となる、の繰り返しが長期間続いていましたが、松平大給家が入封するとようやく落ち着き始めたのでした。
三河国には他にもいくつかの藩が存在していましたので、是非あわせてチェックしてみてくださいね。
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