長野県に存在した「小諸(こもろ)藩」は、千曲川流れる水の豊かな場所にあった藩ですが、その場所があだとなり水害やその他の自然災害に多数回見舞われた藩でした。それゆえ幕府に救金を要請するほど藩政は厳しいものだったようです。
今回は、「小諸藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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小諸藩ってどんな藩だったの?
小諸藩の基礎情報
石高 | 1万5,000石 |
旧国 | 信濃(長野県) |
居城 | 小諸城(小諸市) |
藩主 | 千石家~牧野家の7家 |
家紋名 | 牧野三つ柏 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
小諸藩の歴代藩主7家
小諸藩は7つの家によって支配されていました。
小諸藩の藩主の変移
- 初代藩主……仙石秀久
- 最後の藩主…牧野康済
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多数の災害に見舞われギリギリ存続した小諸藩
小諸藩は、信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に存在し、藩庁を小諸城に置いていました。藩主が7回も変遷し落ち着きのない藩でしたが、最終藩主の牧野家の時代でようやく落ち着くこととなります。藩主の変遷は止まったものの、自然災害に見舞われて…。
小諸藩の藩祖は秀吉の家臣
小諸藩の立藩は、斉藤家・織田家・豊臣家の旧家臣で数々の武功を挙げた仙石秀久が所領を安堵される形で立藩しました。初代藩主となった秀久は、城下町の整備など藩の基盤作りに尽力しました。
また、中山道の伝馬・駄賃制度を定め、宿場町を整備して笠取峠に松並木を植えました。この松は現在も残っており、「長野県天然記念物」となっています。このような秀久の努力があったにもかかわらず田地は荒廃し、農民の一部は逃散していきました。やがれ秀久が亡くなると子・忠政が2代目藩主となりますが、信濃国上田藩に移封となり小諸藩は廃藩となりました。
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再立藩と小諸藩の歴代藩主とその歴史
廃藩となった小諸藩ですが、松平久松家によって再度立藩となります。そして1〜2代ずつころころと青山家・酒井家・西尾家・松平大給家と藩主は変遷していき、最終藩主となる牧野家が入封するとようやく藩は安定します。
牧野家を藩主とする小諸藩は、藩校「明倫堂」を開校するなどして学問の推奨に力を入れますが、浅間山の大噴火や千曲川の水害などの自然災害に見舞われました。この水害は「戌の満水」と呼ばれるもので、氾濫した川が城下へ押し寄せ、家屋を流し、死者が600人弱出るほどの悲惨なものでした。
自然災害で藩政が厳しくなった小諸藩は、幕府に対し救金として2,000両を要請しました。どうにか藩政を復活させようと、年貢を「検見法」から「定免法」に改めたり、倹約令を出したりと財政政策に尽力していましたが、領内で家事が勃発する事件も起き、改革には至りませんでした。
その後も殖産興業に勤めるも天保の飢饉が起こるなど悪事が続き、小諸藩はなんとか存続していた形でした。やがて廃藩置県を迎え、小諸藩は小諸県を経て長野県に編入されたのでした。
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小諸藩の家紋は牧野家の「牧野三つ柏」
柏はブナ科の落葉高木で、古代から神への供物として食物を盛る器代わりとして使用されてきました。柏は「神聖な木」として見られるようになり、やがて家紋として使用されるようになります。柏紋は約500種もあり多様なバリーエションがあります。 多く用いたのは神道の家である卜部一族、そして卜部氏の流れを汲む萩原家、錦織家、藤井家、吉田家でした。じきに武家の家紋としても用いられるようになり、徳川の時代に山内氏、牧野氏、中川氏に用いられました。 そして江戸時代になると土佐藩主・山内家を初めとする130もの大名や旗本の家紋となりました。 現在、柏を神紋としている神社は一県には一社あると言われています。
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まとめ
「小諸藩」は歴代藩主が次々に変わり、廃藩となるもなんとか牧野家まで存続しました。牧野家は10代にわたり支配し続けましたが、支配というよりなんとかその時代を生きてきたというような厳しい藩政でした。
自然災害が重なったのもあり、運が悪かったとも言えるでしょう。なんとか財政改革を試みた牧野家でしたが、藩は右肩上がりになることはなく幕を閉じたのでした。
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