【江戸幕府300藩】鶴牧藩の家紋は水野家の「水野沢瀉」|わずか44年のみ存在した小藩

現在の千葉県市原市には、「鶴牧藩」というとても小さな藩が存在していました。立藩が遅く、廃藩置県となるまでの間わずか44年のみ支配されていた藩です。

今回は、「鶴牧藩」の歴代藩主とその短い歴史・使用家紋についてご紹介いたします。

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鶴牧藩ってどんな藩だったの?

鶴牧藩の基礎情報

石高 1万5,000石
旧国 上総(千葉県)
居城 鶴牧陣屋(市原市)
藩主 水野家
家紋名 水野沢瀉
江戸城控間 雁間
城主格
爵位 子爵

鶴牧藩の歴代藩主

▶︎水野家のみ◀︎

鶴牧藩は、3代にわたり水野家に支配され続けていました。

鶴牧藩の藩主の変移

  • 初代藩主……水野忠韶
  • 最後の藩主…水野忠順

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鶴牧藩はわずか3代で廃藩となった小藩

鶴牧藩は、上総国(現在の千葉県市原市椎津)に存在していた藩で、藩庁を鶴牧陣屋に置いていました。歴代藩主は水野家で、わずか3代のみで廃藩置県を迎えてしまいます。小藩ゆえに財政は厳しく、あまり良い幕政ではなかった鶴牧藩の歴史を見ていきましょう。

水野家による鶴牧藩の立藩

鶴牧藩は1827年、安房北条藩主・水野忠韶の転封によって立藩しました。忠韶は1万7,000坪という広大な領地に藩庁となる鶴牧陣屋を築城します。

忠韶が死去すると養嗣子の忠実、そしてその忠順が継いでいきますが、鶴牧藩の幕政は良いものではありませんでした。

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政策に注力するも変わらぬ財政難

鶴牧藩は小藩ゆえに財政は厳しく、2代目藩主・忠実奏者番・西の丸若年寄を歴任し、幕政再建のために倹約などの政策に取り組みますが、財政が良くなることはなく悪化の一途を辿っていきます。

また、最終藩主となる忠順の時代には、幕末に起きた戊辰戦争の際に「五井村戦争」が勃発し、その責任を負わされる形で転封となってしまいます。

立藩から44年で廃藩置県となる

その後、幕政再建を目指し忠順は諦めずに官制・軍制改革などの藩政改革を行いまずが努力は報われず、1871年の廃藩置県を迎えます。そして鶴牧藩▶︎鶴牧県▶︎木更津県▶︎千葉県へと変遷していったのでした。

鶴牧藩の立藩は遅く、1827年であったため、立藩から廃藩までわずか44年という短い期間のみ存在していた藩でした。

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鶴牧藩の家紋は水野家の「水野沢瀉」

沢瀉(おもだか)の「瀉」は見慣れない字ですが、水が流れ落ちる、そそぐという意味です。 沢瀉は水田や池や沢に自生する水草で、夏には三弁の白い花を咲かせます。葉は、Yの字を逆さにしたような形でくっきりと葉脈が見え、人の顔の形に似ていることから面高と呼ばれ、そこから面目が立つという意味を連想したとも言われています。 また、葉が矢尻の形に似ていることから、別名「勝ち草」「勝軍草」とも呼ばれ武士の家紋として広く使われました。平治物語の中には沢瀉鎧が源氏八領の鎧の一つと記載されています。袖に描かれた三角形の模様が沢瀉に似ていることからそう呼ばれています。

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まとめ

鶴牧藩」は水野家のみが支配していた藩ですが、立藩が1827年と遅く、廃藩までの間のわずか44年のみ存在していた小さな藩でした。

小藩ということで財政も厳しく、藩の中ではあまりポピュラーなものではありませんが、目立たぬ小藩について知るのも面白いですので、是非他のメジャーではない藩についえもチェックしてみてくださいね。

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