茨城県の土浦市は海側の街ですが、ここを支配していた6つの家がありました。「土浦藩」という名前で存在していたその藩は、藩主が幾度も変わり、あまり安定したものではなかったようです。
今回は、「土浦藩」の歴代藩主とその歴史・今も残る土浦城・使用家紋などについてご紹介いたします。
スポンサードリンク
目次
|
|
土浦藩ってどんな藩だったの?
土浦藩の基礎情報
石高 | 9万5,000石 |
旧国 | 常陸(茨城県) |
居城 | 土浦城(土浦市) |
藩主 | 松平(藤井)家〜土屋家の6家 |
家紋名 | 九曜 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
土浦藩の歴代藩主6家
土浦家は、合計6つの家が藩主となっていました。藩主は次々と変わっていきましたが、最終的には土屋家で落ち着くこととなります。
土浦藩の藩主の変移
- 初代藩主……松平信一
- 最後の藩主…土屋挙直
スポンサードリンク
安定するまで6つの家が藩主となった土浦藩
土浦藩は、常陸国(現在の茨城県土浦市)に存在していた藩で、藩庁は土浦上に置いていました。初代藩主は松平藤井家でしたが、そこから5つもの家に藩主がころころと変わっていきました。立藩からの土浦藩の歴史について見てみましょう。
松平家による土浦藩立藩と土浦城建築
戦国時代には、土浦は戦国大名の小田氏の領地となっていました。その小田氏が滅びると結城氏の領地となり、その結城氏の当主となっていた家康の次男・秀康の転封に伴う形で譜代の松平信一が入封します。これが土浦藩の始まりで、最初は3万5,000石でした。
2代目藩主・信一の養子である信吉の時代には土浦上の建築が始まり、あと少しで完成!という時に移封となってしまいます。
スポンサードリンク
ころころ変遷した土浦藩主
初代藩主である松平家が移封となると、次に藩主になったのは西尾家です。建築中であった土浦上築城計画を進め、領内検知も行われました。
しかしその後も西尾家が移封となり、藩主は安定することなく朽木家・松平(大河内)家などに代わっていきました。そして、最終的に藩主となった土屋家が藩主となると、そのまま幕末まで当地を支配しました。
最終藩主・土屋家も統治に苦戦
目まぐるしく変わっていった土浦藩の藩主でしたが、最終藩主の土屋家が入封すると状況は安定していきました。しかし土屋家は徳川家の流れを汲む藩主であったことから、幕末には佐藤派・討幕派との間で翻弄されることとなってしまいます。そのことが原因となり、落ち着いたかと思われた土浦藩は再び不安定なものとなっていきました。
土浦家までの家々は転封が多く、長くてたったの2代しか続きませんでしたが、土屋家は10代続き、土浦藩の中では一番安定していました。
スポンサードリンク
土浦城は「続日本100名城」に
初代藩主・松平家の時代に建築が始まり、その次の西尾家の時代に完成した藩庁・土浦城は、火災や台風により被害を受けましたが、随時修復されてきました。
2011年の東日本大震災の際にも打撃がありましたが2012年6月までに修復工事を終え、その後は一般公開されています。やがて2017年になると「続日本100名城」にも選定され、現在も公開され続けています。
- 時代・地域の代表であること
- 著名な歴史の舞台であること
- 優れた文化財・史跡であること
スポンサードリンク
土浦藩の家紋は土屋家の「九曜」
星は、運命を司るものとして信仰されてきました。決まった軌道で移動するため、狩猟や航海の際には位置がわかるものとして、農業では季節がわかるものとして古くから人々に活用されてきました。 星は文様として扱われるようになり、やがて家紋にも用いられるようになりました。 星といえば★型が現代では一般的ですが、当時の星模様は●で表されます。一つではなく複数の●で構成されたものが主流でした。武家の使用者として代表的なのは千葉氏で、月星紋を使用していました。星紋は全国的に広まって庶民の間でも用いられたそうです。 また、三つ星=勝ち星を表し、戦いに挑む武家の間でも人気の紋となっていました。
詳しくはこの記事をチェック!
スポンサードリンク
【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう
まとめ
「土浦藩」は、6つの家が代わる代わる交代し藩主と藩共に不安定でしたが、最終藩主となった土屋家の時代になるとようやく落ち着いたようですね。しかし、徳川家の流れを汲む家であったことにより、色々と翻弄させられることも多く苦労が多かったようです。
土浦城は壊れる度に修復が行われ、続日本100名城にも選定されている城なので、是非今度も残っていってほしいものです。
スポンサードリンク
他にもあるぞ!超人気家紋コンテンツ |
|