【江戸幕府300藩】水戸藩の家紋は徳川(水戸)家の「水戸三つ葵」|水戸黄門も藩主を務めた徳川御三家

水戸黄門はみなさんご存知の人物ではないかと思いますが、今回は水戸黄門が2代藩主と務めた「水戸藩」についてご紹介したいと思います。

徳川御三家の一つであり、藩の中ではとても有名なものです。それでは、「水戸藩」の歴史・使用家紋・藩主などについて見ていきましょう!

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水戸藩ってどんな藩だったの?

水戸藩の基礎情報

石高 35万石
旧国 常陸(茨城県)
居城 水戸城(水戸市)
藩主 松平(武田)家~徳川(紀州)家~徳川(水戸)家
家紋名 水戸三つ葵
江戸城控間 大廊下
御三家
爵位 候爵

水戸藩の歴代藩主3

松平家▶︎徳川(紀州)家▶︎徳川(水戸)家

水戸藩の藩主はこのように変遷していきました。

水戸藩の藩主の変移

  • 初代藩主……松平信吉
  • 最後の藩主…徳川昭武

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松平信吉によって立藩された水戸藩

水戸藩は、徳川家康の5男である武田(松平)信吉が15万石を与えられて立藩しました。統治した地域としては現在の茨城県中部から北部のエリアです。水戸藩ができたきっかけとなったのは、1602年の関ヶ原処分による影響を受け、佐竹家が久保田21万石に滅転封したことです。

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信吉の後すぐに頼宣が藩主に

しかし水戸藩の立藩後すぐに信吉が亡くなってしまい、紀州徳川家の当主であり8代将軍となった吉宗の祖父にあたる頼宣が新しい藩主となります。しかし頼宣は幼少で、藩主となっていたのはなんと2歳から8歳までの期間でした。それゆえ一度も水戸入りすることはありませんでした。

水戸徳川家を成立させた頼房

幼少で藩主を務めた頼宣に替わり、家康の11男である頼房が6歳で下妻藩より入封しました。それ以降「水戸徳川家」が成立し、徳川御三家の一角として権威を握ることとなったのです。

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水戸藩は参勤交代をしていなかったためにお金が…

歴代藩主となった水戸徳川家は、江戸定府だったため水戸にいない状態で統治を行っていました。御三家の中で唯一参覲交代を行わない藩でした。そのような特殊な体制により費用がかさみ、更には御三家として大きな賦役を求められ、財政的に厳しくなってしまいます。

これにより有名な「百姓一揆」が起き、3000人以上の農民たちが江戸へ行き抗議するという大きな騒ぎとなったのです。

水戸黄門で知られる光圀は第2藩主

「この紋どころが目に入らぬか」という有名な台詞で知られる水戸黄門は、水戸藩の第2藩主徳川光圀でした。光圀が編纂した「大日本史」は後に水戸学の基礎となり、幕末の尊攘派にも影響を与えました。

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水戸学とは?

「水戸学」とは江戸時代水戸藩により形成された政治思想の学問ことを言います。水戸学は、諸藩が藩士の子弟を教育するため全国に設立した学校(藩校)でも教えられました。

水戸学の「愛民」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与え、明治維新の大きな原動力にもなったと言われています。

廃藩置県後は水戸県→茨城県へ

水戸藩は御三家の一角でありながら主導権を握ることのないまま廃藩置県を迎えます。水戸藩は水戸県となり、その後茨城県へと編入されました。

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水戸藩の家紋は徳川(水戸)家の「水戸三つ葵」

葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。 葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。 家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。 家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。 水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。

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まとめ

水戸黄門で有名な「水戸藩」についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?徳川御三家の一つでもある特別な藩ですね。

家紋には徳川家の象徴である葵紋を使用し、格式高い藩でありましたが財政が上手くいかないという事情もあったようです。廃藩置県により後に茨城県となりましたが、水戸藩は現代でも知名度の高いものとなりました。

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