【江戸幕府300藩】谷田部藩の家紋は細川家の「蛇の目九曜」|巨額の負債で財政難の小藩

茨城県のつくば市と言えば「筑波山」ですが、以前この地域には「谷田部藩」という藩がありました。細川家によって9代続いていた藩ですが、負債まみれで財政はギリギリの小さな藩だったようです。

今回は、「谷田部藩」の歴史と財政状況・使用家紋などについてご紹介いたします。

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谷田部藩ってどんな藩だったの?

谷田部藩の基礎情報

石高 1万6,000石
旧国 常陸(茨城県)
居城 矢田部陣屋(つくば市)
藩主 細川家
家紋名 蛇の目九曜
江戸城控間 柳間
陣屋
爵位 子爵

谷田部藩の歴代藩主

▶︎細川家のみ◀︎

谷田部藩は、9代にわたり細川家に支配され続けていました。

谷田部藩の藩主の変移

  • 初代藩主……細川興元 
  • 最後の藩主…細川興貫

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谷田部藩は負債まみれのギリギリ存続

谷田部藩は常陸国(現在の茨城県つくば市谷田部)に存在していた藩で、藩庁は谷田部陣屋に置いていました。細川家により支配され続け、藩主のばらつきは無いものの財政は逼迫し、なんとか存続していた小藩でした。

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谷田部藩の立藩と陣屋の設置

谷田部藩は1610年、細川幽斎の次男で宗家を継いだ兄・忠興と不仲であった興元が、2代将軍の秀忠より1万石を与えられる形で立藩しました。

その後興元は「大坂の陣」で功績をあげ、1616年には常陸国筑波郡・河内郡の6,200石を加増され、陣屋を茂木から谷田部に移しました。藩庁は谷田部に移動したものの、それまでの茂木は残され、藩主や藩主一族が滞在することもありました。ちなみに、谷田部陣屋の跡地は現在つくば市立谷田部小学校となっています。

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あらゆる出来事により財政悪化

細川家で代々受け継がれていった谷田部藩主ですが、大風雨による洪水や熱病、飢饉など様々な影響を受け、財政は危機的に逼迫します。

その結果、谷田部藩の負債額は12万7000両にまでかさんでしまいます。これはお米にすると2,600個分という途方もない数字でした。経済状況が悪いため農耕も上手くはいかず、幕政は右肩上がりになることはなく、どんどんと低迷していきました。

改革を試みるも失敗の連続

歴代の谷田部藩主は、あまりに悪い藩の状況を変えるべく、様々な改革に乗り出しますが全て失敗に終わってしまいます。藩では年貢の減額を訴える百姓一揆が起こり、財政共に領民の生活も暴落していきました。

細川宗家が治めることとなった熊本藩からの借財などの支援もあり、なんとか谷田部藩は存続していきましたが、安定することはなく辛うじて存続した小さな藩でした。やがて廃藩置県となり、谷田部藩は新治県となり、茨城県に編入となりました。

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谷田部藩の家紋は細川家の「蛇の目九曜」

星は、運命を司るものとして信仰されてきました。決まった軌道で移動するため、狩猟や航海の際には位置がわかるものとして、農業では季節がわかるものとして古くから人々に活用されてきました。 星は文様として扱われるようになり、やがて家紋にも用いられるようになりました。 星といえば★型が現代では一般的ですが、当時の星模様は●で表されます。一つではなく複数の●で構成されたものが主流でした。武家の使用者として代表的なのは千葉氏で、月星紋を使用していました。星紋は全国的に広まって庶民の間でも用いられたそうです。 また、三つ星=勝ち星を表し、戦いに挑む武家の間でも人気の紋となっていました。

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まとめ

谷田部藩」は、細川家という1つの家で藩主が代々引き継がれていましたが、藩主の安定とは裏腹に経済状況は悪く、負債で一杯一杯の藩であることがわかりました。

熊本藩からの借財もあったようですが、辛うじて存続していたほど財政難だったようです。かつては谷田部藩のように自然災害による被害で幕政が崩れ、財政難となる藩も多かったようです。ぜひ他の藩についてチェックしてみてくださいね。

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