手取川の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.12

上杉家に囲まれた七尾城を救うため、柴田勝家を総大将に30000の軍勢で挙兵した織田軍。しかし、上杉謙信は強かった…!退却する織田軍に、謙信率いる上杉軍が背後から襲い掛かります。

●1分で分かる

上杉家に囲まれた七尾城を救うため、柴田勝家を総大将に30000の軍勢で挙兵した織田軍。しかし、上杉謙信は強かった…!退却する織田軍に、謙信率いる上杉軍が背後から襲い掛かります。

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七尾城を攻め込む上杉謙信

越後(新潟県)の武将・上杉謙信は、20000もの軍を率いて出陣し、能登(石川県)にある七尾城を攻略しようとします。謙信の軍に囲まれてしまった七尾城は、織田信長に助けを要請。織田信長は、織田家の重臣であった柴田勝家を総大将とし、さらに滝川一益・羽柴秀吉・丹波長秀らを同行させ、30000を超える数の援軍を七尾城へと送り込みます。

手取り川の戦い開戦

ところが、勝家率いる軍勢が「手取り川」を渡った時に、とある知らせが入ってきます。それは、能登の領主を務めていた七尾連に反感を抱いていた者たちが反乱をおこし、上杉側についたという話しでした。この裏切りにより、勝家が到着する前に七尾城は落城してしまったのです。
織田軍(戦力約30,000人) 上杉軍(戦力約20,000人)
大将 shibata柴田勝家 上杉謙信の画像上杉謙信
家紋 shibata5 二つ雁金紋(ふたつかりがね) takenisuzume竹に二羽飛び雀/上杉笹
家紋解説

丹羽長秀、豊臣秀吉も参戦

前述のとおり、戦上手の柴田勝家が総大将となったばかりでなく、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や丹波長秀など、信長の重臣たちが数多く参加するはずだった戦でした。しかし、七尾城が謙信によって落とされたことを知った柴田勝家は、この戦が不利であると判断しました。

軍配は上杉謙信に

一瞬のスキを逃さなかった謙信

前述のとおり、戦上手の柴田勝家が総大将となったばかりでなく、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や丹波長秀など、信長の重臣たちが数多く参加するはずだった戦でした。しかし、七尾城が謙信によって落とされたことを知った柴田勝家は、この戦が不利であると判断しました。

多くの織田軍が溺れ死に

背後から攻撃された織田軍は、「手取川」を渡って上杉軍から逃れようとしますが、それもままならず、多くの兵がここで命を落としたと言われています。その様子を見ていた謙信は、織田軍のことを「弱いものよ」と言って笑ったとか。「越後の龍」「軍神」と呼ばれた上杉謙信が、その戦のうまさを見せつけた話でもありますね。

信長の天下統一を謙信が止めると思われたが・・・

この戦での勝利もあり、軍神・上杉謙信が織田信長を倒し、天下統一を阻むのではないか?と言われていたこともあります。しかし、上杉謙信は49歳でこの世を去ってしまっため、それはかないませんでした。ただし、織田信長も「本能寺の変」で明智光秀に敗れ、天下統一目前でこの世を去ります。天下統一の夢は、信長の家臣であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に引き継がれることになりました。

まとめ

「軍神」「越後の龍」などと言われた上杉謙信。その強さが、どんなものだったのかが良く解るエピソードです。この後に謙信は病に倒れて亡くなってしまうのですが、もっと長く生きていたら戦国時代はどうなっていたのでしょう?上杉謙信と言えば武田信玄というイメージがとても強いのですが、こうして織田信長との戦いでも謙信は鋭い戦術を見せています。

 

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