【江戸幕府300藩】大垣藩の家紋は戸田家の「九曜」|石田三成も入城した東海道と中山道を繋ぐ重要地

東海道と中山道を繋ぐ需要地点に「大垣」という地域がありました。美濃国と近江国を繋ぐこの地には「大垣藩」という藩があり、支藩には「大垣新田藩」がありました。

今回は、「大垣藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。

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大垣藩ってどんな藩だったの?

大垣藩の基礎情報

石高 10万石
旧国 美濃(岐阜県)
居城 大垣城(大垣市)
藩主 石川家~戸田家の5家
家紋名 九曜
江戸城控間 帝鑑間
城主
爵位 伯爵

大垣藩の歴代藩主5家

石川家▶︎松平(久松)家▶︎岡部家▶︎松平(久松)家▶︎戸田家

大垣藩は5つの家によって支配されていました。

大垣藩の藩主の変移

  • 初代藩主……石川康通 
  • 最後の藩主…戸田氏共

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石田三成も入城した東海道と中山道を繋ぐ重要地

大垣藩は、美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)に存在し、藩庁を大垣城に置いていました。前半は藩主が定着しないものの、戸田家が入封するとそこから維新まで11代にわたり存続しました。戸田家は藩政改革を試みますがなかなか上手くいかず…。

大垣藩の立藩と所領の歴史

大垣の地は東海道と中山道が通り、美濃国と近江国を繋ぐ重要地点とされていました関ヶ原の戦いの際には、関ヶ原が近いということで大垣城に石田三成が入城し、西軍本拠地となったこともあります。

立藩するきっかけとなったのは、家康によって入封となった石川家の石川康通です。そこから松平久松家▶︎岡部家▶︎再び松平久松家が藩主となりましたが、どれも2大のみで長く続くことはありませんでした。

戸田家により明治維新まで存続

藩主の落ち着きがなかった大垣藩ですが、戸田家が入封するとそこから11代にわたり支配が続きます。

戸田家の初代藩主となった氏鉄は、新田開発・治水工事・家臣団編成・地方地行制の廃止・俸禄制度の採用などあらゆる面で藩の基盤作りに努めました。また、文化事業において「儒学書」を著作したことでも知られています。

初代藩主・氏鉄の次男である氏経が旗本に取り上げられたことにより始まったのが「大垣新田藩」です。大垣藩の支藩として立藩し、そのまま維新まで存続しました。

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幾度もの藩正改革に取り組んだ大垣藩

氏鉄の後も11代にわたり戸田家が支配した大垣藩ですが、歴代藩主は何度も藩政改革に取り組みます。しかし百姓一揆がの勃発や安政の大獄などにより失敗が繰り替えされました。

最終藩主・氏共の時代には藩政改革を中断し、戊辰戦争の際には新政府側に恭順しました。やがて廃藩置県を迎えると大垣藩は廃藩、大垣県▶︎岐阜県へと変遷しました。

大垣藩の家紋は戸田家の「九曜」

星は、運命を司るものとして信仰されてきました。決まった軌道で移動するため、狩猟や航海の際には位置がわかるものとして、農業では季節がわかるものとして古くから人々に活用されてきました。 星は文様として扱われるようになり、やがて家紋にも用いられるようになりました。 星といえば★型が現代では一般的ですが、当時の星模様は●で表されます。一つではなく複数の●で構成されたものが主流でした。武家の使用者として代表的なのは千葉氏で、月星紋を使用していました。星紋は全国的に広まって庶民の間でも用いられたそうです。 また、三つ星=勝ち星を表し、戦いに挑む武家の間でも人気の紋となっていました。

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まとめ

「大垣藩」は美濃国と近江国を繋ぐ場所として重要視され、あの石田三成が入城したことのある藩でした。最終藩主となった戸田家によって11代にわたり支配が続き、途中「大垣新田藩」という支藩もできた出来事もあります。是非あわせて大垣新田藩についてもチェックしてみてくださいね。

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