【江戸幕府300藩】三河吉田藩の家紋は松平(大河内)家の「三つ扇」|幕藩体制下にあり重要視された

現在の愛知県である三河国には、幕藩体制下で存続し続けた「三河吉田藩」という藩がありました。東海道の重要地点ということもあり、歴代藩主には徳川家の名門譜代が入れ替わり入封していました。

今回は、「三河吉田藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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三河吉田藩ってどんな藩だったの?

三河吉田藩の基礎情報

石高 7万石
旧国 三河(愛知県)
居城 吉田城(豊橋市)
藩主 松平(竹谷)家~松平(大河内)家の9家
家紋名 三つ扇
江戸城控間 雁間
城主
爵位 子爵

三河吉田藩の歴代藩主9家

松平(竹谷)家▶︎松平(深溝)家▶︎水野家▶︎小笠原家▶︎久世家▶︎牧野家▶︎松平(大河内)家▶︎松平(本庄)家▶︎松平(大河内)家

三河吉田藩は9つの家によって支配されていました。

三河吉田藩の藩主の変移

  • 初代藩主……松平家清
  • 最後の藩主…大河内信古

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幕藩体制下で重要視された三河吉田藩

三河吉田藩は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)に存在し、藩庁を吉田城に置いていました。歴代藩主は8つの家に及びますが、幕藩体制下にあった重要視されていた藩ということで名門譜代が多く入封した特徴があります。

重要視された三河吉田藩とは?

当地は古くから東海道の要衝地として重要視され、計8つの家々が藩主となりましたが、いずれも名門と言われた譜代ばかりでした。三河吉田藩は現在の豊橋市にあたる場所を領していた譜代藩で、明治維新後には「豊橋藩」と改名されています。

幕藩体制下の三河吉田藩

1601年、武蔵国八幡山藩から徳川氏譜代の重臣・松平竹谷家の家清が3万石で入封したことにより立藩しました。その2年後に正式に徳川幕府が発足すると、三河吉田藩も正式に幕藩体制下の藩となりました。

ここから移封と入封を繰り返し、松平(深溝)家▶︎水野家▶︎小笠原家▶︎久世家▶︎牧野家▶︎松平(大河内)家▶︎松平(本庄)家と藩主が変遷していきましたが、最終的に松平大河内家が入封すると7代にわたり当藩を支配、落ち着くこととなりました。

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松平大河内家による支配

歴代藩主には名門譜代があてられた三河吉田藩でしたが、歴代藩主の中でも有名なのが松平大河内家4代目藩主・信明です。信明は老中に命じられて、松平定信の寛政の改革に参与しました。

定信が辞職すると老中首座となり、事実上の最高権力者として主導しました。その後一度は老中を辞職しますが、3年後に再び復帰し老中として藩政を主導した凄腕の人物でした。

戊辰戦争の際には新政府に降伏

戊辰戦争が勃発すると、藩内では佐幕派と尊皇派が分裂して争いとなりましたが、新政府軍が吉田に迫ると最終藩主の信古は新政府に降伏したのでした。

三河吉田藩の家紋は松平(大河内)家の「三つ扇」

扇は中国から日本に伝わったものですが、扇子は日本で発明され、中国からヨーロッパまで広がりました。 扇は、風を送って涼を得るのが主な役目ですが、日本では神を招く手段として、扇が使われていました。 扇の語源は、あふぎで、神を仰ぐ(跪いて立つ人を見上げる)意味から、転じて、風を送り神を引き寄せる、おうぎになりました。 扇の末広がりの形も、縁起が良いとされています。 扇紋は、開き扇、たたみ扇があります。また、骨の数によって、三本骨、五本扇、七本扇などにも分けられ、数多くのデザインがあります。 武将佐竹義重の佐竹家では、黒い扇に白の日の丸をほどこした家紋が用いられていました。

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まとめ

「三河吉田藩」は幕藩体制下の藩として存続し、東海道における重要地点ということで名門譜代が入れ替わり藩主となった藩でした。

使用家紋には縁起が良いとされる「扇紋」を使用していましたが、扇は家紋の中でもポピュラーなものですので是非家紋の記事もチェックしてみてくださいね。

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