【江戸幕府300藩】三春藩の家紋は秋田家の「秋田檜扇」|戊辰戦争では無血降伏

福島県で現在も「田村郡三春町」という名前が残っているところに、「三春藩」という藩がありました。

1代藩主も2代藩主も上手く統治できず、最終藩主の秋田家によってなんとか続いていた藩の一つです。戊辰戦争ではあの板垣退助と密会し降伏することとなるのです。

今回は、「三春藩」の藩主3家・財政事情・使用家紋や戊辰戦争でのストーリーなどについてご紹介いたします。

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三春藩ってどんな藩だったの?

三春藩の基礎情報

石高 5万石
旧国 陸奥(福島県)
居城 三春城(三春町)
藩主 加藤家〜秋田家の3家
家紋名 秋田檜扇
江戸城控間 帝鑑間
城主
爵位 子爵

三春藩の歴代藩主3家

加藤家▶︎松下家▶︎秋田家

加藤家・松下家は続きませんでしたが、その後秋田家によって11代続くこととなります。

三春藩の藩主の変移

  • 初代…………加藤明利
  • 最後の藩主…秋田映季

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終始安定せず財政の悪かった三春藩

三春藩の初代藩主は、加藤嘉明の次男である加藤明利ですが、加藤家の統治は明利のみのわずか1代で終わってしまいます。そこで次に入封したのが2代目藩主松下家の松下長綱です。しかし、松下家も長綱1代のみで終わりを迎えてしまいます。

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ようやく続いた3代目藩主秋田家ですが…

1代・2代と加藤家・松下家それぞれの藩主はわずか1名のみで統治を終えてしまいますが、その後に入封したのが秋田家です。1645年に秋田家の秋田俊季が5万5000石で移封し、子の盛季の代になると弟に5000石を分けて5万石となります。

秋田家は幕府から譜代大名へと格上げされ、秋田家のみで11代の藩主にわたり統治し続けていきました。産業としては馬の畜産やタバコの栽培などに力を入れていましたが、三春藩の財政は右肩上がりになることはなく、悪化の一途を辿っていったのです。

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戊辰戦争で無血降伏した三春藩

幕末に起きた戊辰戦争では、官軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩迅衝隊)が隣の藩であった棚倉藩を落とすと、土佐藩迅衝隊の美正貫一郎や三春藩士の河野広中の働きにより板垣退助と密会談し、三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退して官軍に無血降伏をしました。

隣の藩であった「棚倉(たなくら)藩」については、下記の記事で詳しく紹介していますのでチェックしてみましょう!

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三春城跡地は桜咲く公園に

三春藩の居城であった三春城ですが、建築された年についてははっきりしたことがわかっていません。16世紀初期に田村義顕が守山城より三春城に本拠地を移したということはわかっており、建築がその頃なのかもっと前なのかが不詳となっています。

三春城は1871年の廃藩置県によって廃城となり、その後は兵部省の管轄となります。それと同時に石垣や建物が取り壊され、1922年になると公園として整備されます。そして三春城のあったエリアは現在、桜の咲く公園・小学校・公民館・役場のある街の中心部となっています。

また、三春町大字滝字桜久保には樹齢1,000年を超える大きな桜があり、「三春滝桜」と呼ばれ国の天然記念物となっています。

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三春藩の家紋は秋田家の「秋田檜扇」

扇は中国から日本に伝わったものですが、扇子は日本で発明され、中国からヨーロッパまで広がりました。 扇は、風を送って涼を得るのが主な役目ですが、日本では神を招く手段として、扇が使われていました。 扇の語源は、あふぎで、神を仰ぐ(跪いて立つ人を見上げる)意味から、転じて、風を送り神を引き寄せる、おうぎになりました。 扇の末広がりの形も、縁起が良いとされています。 扇紋は、開き扇、たたみ扇があります。また、骨の数によって、三本骨、五本扇、七本扇などにも分けられ、数多くのデザインがあります。 武将佐竹義重の佐竹家では、黒い扇に白の日の丸をほどこした家紋が用いられていました。

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【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう

まとめ

「三春藩」は1代・2代藩主はそれぞれすぐに終わってしまい、最終藩主である秋田家によって統治し続けられていたことがわかりました。畜産やタバコ生産に力を入れたものの上手くいかず、財政は悪かったとのことでした。

現在はなくなってしまった三春城ですが、公園や小学校・役場のある場所として存在しているのは良いことですよね。廃藩置県になるまでの間粘り続けていた城なので、これからも大切な土地として残っていってほしいものですね。

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