木津川口の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.11

●記事の概要

 

●1分で分かる木津川口の戦い

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信長の侵略を拒んだ石山本願寺

時の将軍・足利義昭と共に今日の都に入った織田信長は、武力で天下統一を果たそうとしていました。その織田信長から無理難題を突き付けられ、最終的には対立し戦うことを選んだのが石山本願寺です。

石山本願寺の本願寺顕如は、全国の門徒たちに「反信長」を通達し、信長と戦うように命じていました。また、自らも寺に籠城して信長と戦いを続けていました。

 

第一次木津川口の戦い

・石山本願寺に食料を運んでいた村上水軍

石山本願寺は、寺に籠城する作戦をとり、織田信長の軍と戦っていました。では、どうして寺側は籠城して戦うことができたのでしょう?それは、中国地方を治めていた毛利家の毛利軍が、自らと手を結んでいた村上水軍と手を組み、本願寺側に食料や武器をはこんでいたからです。これがあったからこそ、本願寺側は信長と戦い続けることができました。信長は、この村上水軍を倒すことが本願寺討伐につながると考え、戦います。しかし、村上本願寺が得意としていた「火攻め」に太刀打ちすることはできず、信長は敗けてしまいました。

・九鬼嘉隆

九鬼嘉隆が使用していた家紋は、「七曜」。戦国時代において、星は丸い形で示していました。この七曜紋は、夜空に輝く美しい星を表した家紋です。「海賊」「水軍大将」と呼ばれた嘉隆は、もしかしたら船の上から美しいほしたちを見て、癒されていたのかな?と思わせますね。
織田軍(鉄甲船6隻) 毛利軍(約600隻)
大将 九鬼嘉隆九鬼嘉隆 村上武吉
家紋 家紋七曜
家紋解説

九鬼嘉隆に鉄甲船を造らせた信長

村上水軍に敗北したことを知った信長は、次の作戦を考えます。村上水軍は、手投げ弾や火矢といった「火を用いる武器」を駆使して戦いを挑んできたので、「火に強い船を作るように」と家臣の九鬼嘉隆に命じました。そこで、出てきたのが「鉄甲船を作る」という案。嘉隆は、大きな砲台をのせた22メートルもの船を6隻造り、それを率いて再び木津川口に侵攻しました。

第2次木津川口の戦い

鉄甲船6隻が村上水軍を撃破

村上水軍がいくら火を使っても、鉄で作った船は燃えることありませんでした。鉄甲船の圧倒的な強さに村上水軍は歯が立たず、敗北。その村上水軍から食料や武器をもらうことができなくなった石山本願寺は、2年後に織田信長に降伏するのでした。こうして、「第二次木津川口の戦い」で信長が勝ったことで、10年にも及んだ石山合戦はようやく幕を閉じるのです。
  • まとめ
最後に、「村上水軍」について少しだけ。村上水軍は、瀬戸内海を行き来する船から通行料を取って、それを資金にしていました。この行為自体は国が認めたものではなかったのですが、船たちは村上水軍にお金を払うことで他の海賊たちから守ってもらうことができたので、ちゃんとお金を払って通過していたようです。しかし、織田信長が「本能寺の変」で死に、豊臣秀吉の代になると「海賊取締令」が出され、村上水軍は船の通行料をとることができなくなってしまいました。そして、村上水軍を率いていた村上武吉は追い出され、実質は解体ということになったようです。最終的には敗北したとはいえ、火を使った戦術で織田信長軍を苦しめた「村上水軍」の活躍は、今も語り継がれています。

また、毛利元就と陶晴賢の間で起きた「厳島の戦い」において、元就から「一日だけ味方をしてほしい」と頼まれたのも、村上水軍。元就の誘導で狭い宮島に誘い込まれた陶軍は、海に逃げようとしたときに村上水軍に襲われ、大打撃を受けたと言われています。

・織田信長らしい「鉄甲船」の登場に注目

この「木津川口の戦い」は、10年に及んだ織田信長と石山本願寺の戦いの決着がつく前哨戦のような戦いになります。一度は村上水軍に破れるものの、当時としては珍しかった「鉄の船」を作らせて勝ったというエピソードは、なんとも信長らしいですね。

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