石川県の金沢は、兼六園や茶屋街などがあり現代でも昔の景色が多数残されていますが、そこにはかつて江戸時代最大級と言われた外様藩「加賀藩」が存在しました。
100万石以上の規模を持った加賀藩は、前田家によって橙支配され続け、そのスケールは他の藩とは比べものにならないほどでした。
今回は、「加賀藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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加賀藩ってどんな藩だったの?
加賀藩の基礎情報
石高 | 102万5,000石 |
旧国 | 加賀(石川県) |
居城 | 金沢城(金沢市) |
藩主 | 前田家 |
家紋名 | 加賀前田梅鉢 |
江戸城控間 | 大廊下 |
格 | 国主 |
爵位 | 候爵 |
加賀藩の歴代藩主
加賀藩は、13代にわたり前田家に支配され続けていました。
加賀藩の藩主の変移
- 初代藩主……前田利長
- 最後の藩主…前田慶寧
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100万石を超える江戸時代最大の外様藩・加賀藩
加賀藩は、加賀国(現在の石川県金沢市)に存在し、藩庁を金沢城に置いていました。前田家によって13代にわたり支配された加賀藩は100万石の規模で、更には今日までに続く美術・芸術文化を築いたのでした。
江戸時代最大の外様藩・加賀藩
加賀藩は前田家によって13代にわたり支配された江戸時代最大の外様藩として知られていますが、その藩祖となったのは前田利家でした。
利家は織田信長に与えられた能登1万石から出立し、秀吉に恭順して成功を重ねます。そして最終的には能登・越中・加賀の3国にまたがる家領の原形を形成しました。
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分割された加賀藩とその後の拡大
藩祖・利家が亡くなると、その所領は加賀東部と越中の83万石を領する家督の利長、能登に21万石を領する弟の利政に分割されました。
やがて関ヶ原の戦いが起こると、西軍が敗北したのを機に、利政が持っていた能登の所領は兄・利長に与えられます。利長はその後も所領が拡大し、西加賀の小松領12万石と大聖寺6万3,000石が加領され、支藩を含めると120万石を超える最大級の藩として加賀藩が誕生しました。
加賀藩の歴代藩主とその歴史
藩の基盤は2代目藩主の時代に築かれ、治水業や年貢徴収を断行するなど、藩は起動に乗っていました。「政治は一加賀、二土佐」と言われたほどです。
金沢は現在も文化的な都市ですが、この文化をはじめに構築したのが4代目藩主・綱紀です。文治政治に転換し、美術や工芸・芸能といった文化を保護するとともに推奨しながら金沢の町に定着させていきました。
繁栄した加賀藩は一変・借財まみれに
美術や芸術といった文化を推奨した加賀藩ですが、5代目藩主の時代からはその藩政が右肩下がりに。財政改革を試みるも、加賀藩の借財は幕末期には100万両を超えていました。
そして幕末の政局に関与することなく、そのまま廃藩置県を迎えたのでした。加賀藩は、前半は大きな盛り上がりを見せた江戸時代最大の外様藩主でしたが、その勢力は幕末期にかけて縮小していったのでした。
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加賀藩の家紋は前田家の「加賀前田梅鉢」
梅は、万葉集の中で8世紀になってから歌が見られようになったため、7世紀後半までに大陸に渡った遣隋使や遣唐使、僧侶が苗を持って帰り、その後普及したものと考えられています。万葉集が編纂された奈良時代のお花見というと桜ではなく梅でした。 日本では奈良時代にはすでに紋様として使われていました。また、梅と云えば天神様と関わりが深く、たいていの天神様の境内には梅が植えられています。 梅の紋様には、大別して2つあり、写実的に梅の花を表現した梅花紋と、幾何学的に表現した梅鉢紋があります。 戦国時代には美濃の斎藤氏などが梅紋を使用し、徳川時代には前田氏、松平氏など多くの家が使用していました。
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まとめ
「加賀藩」は100万石を超える壮大な領土を持ち、前田家によって13代にわたり支配された最大級の外様藩でした。金沢の町は現在でも風情があり人気の観光地ですが、その基盤ができたのは前田家の歴代藩主の取り組みのおかげなのでしょう。
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