【江戸幕府300藩】麻生藩の家紋は新庄家の「左三つ藤巴」|立藩には家康が関係!

茨城県の行方(なめかた)市にはかつて、「麻生藩」という藩の藩庁が存在していました。麻生陣屋というもので現在は残っていませんが、今でも麻生陣屋コースという散歩道があったり、文化財が残っていたり、歴史と関わりのある街として残っています。

今回は、「麻生藩」の藩主を守り続けた新庄家の歴史と、使用家紋についてご紹介いたします。

スポンサードリンク

麻生藩ってどんな藩だったの?

麻生藩の基礎情報

石高 1万石
旧国 常陸(茨城県)
居城 麻生陣屋(行方市)
藩主 新庄家
家紋名 左三つ藤巴
江戸城控間 柳間
陣屋
爵位 子爵

麻生藩の歴代藩主

▶︎新庄家のみ◀︎

麻生藩は、15代にわたり新庄家に支配され続けていました。

麻生藩の藩主の変移

  • 初代藩主……新庄直頼 
  • 最後の藩主…新庄直敬

スポンサードリンク

一度は改易となるも新庄家が守り続けた麻生藩

麻生藩は、常陸国(現在の茨城県行方市)に存在していた藩で、藩庁は麻生陣屋に置いていました。新庄家によって15代にわたり幕末まで支配され続けました。

家康に推され麻生藩が立藩

新庄直頼は、関ヶ原処分により所領を没収されますが後に家康から許しが下り、新たに3万石を与えられる形で麻生藩が立藩しました。そのエリアは多数あり、常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内の8郡にも及びました。この時点で藩庁が麻生陣屋に置かれます。

スポンサードリンク

相続問題の不手際により改易に

初代藩主・新庄直頼の後も代々と新庄家の人物によって受け継がれていきますが、5代藩主・直矩の時代に起きた相続問題の際の不手際が原因となり直矩は改易となります。

新庄家の麻生藩主への復帰

しかし改易後、幕府は既に隠居して旗本となっていた前藩主・直時に加増する形で麻生藩主へと復帰が許可されます。ここから再び麻生藩のスタートとなるのです。そしてこれ以降、麻生藩は新庄家により明治時代まで15代続いた藩となりました。

藩によっては藩主がころころと変遷して不安定なところもあるので、麻生藩のように新庄家1つの家により代々受け継がれていたというのはとても安定的で好印象なのです。

スポンサードリンク

麻生藩の家紋は新庄家の「左三つ藤巴」

巴は古代から世界各国に似たような文様があり、発祥は定かではないものの日本では縄文時代から存在していました。 巴は元々弓を弾く際に腕を保護するための武具で、それが後に渦を巻く文様として浸透しました。文様として使われ始めたのは平安時代で、戦国時代には武家によって多く使用されます。特に現在の栃木県である下野宇都宮の一族に多用されていました。そして江戸時代になると約350の家が巴紋を使用し、全国各地で見られるようになります。 巴紋の種類は豊富で、渦を巻く向きの違いや巴の数、大きさなどに違いがあります。具体的には右一つ巴、左渦巻き巴、右五つ巴、台巴などです。人気の家紋であるため、使用者は多数います。

スポンサードリンク

【江戸幕府の全300藩】他の藩の家紋も一緒にチェックしよう

まとめ

「麻生藩」は家康の許可により始まり、新庄家が代々藩主を受け継いできた安定的な藩であることがわかりました。途中、改易されるといった困難があったものの、麻生藩主への復帰が許可され、その期待に応えるように15代にわたえい支配し続けてきたのです。

このように1つの家のみは藩主を務めたケースは珍しいので、是非他の藩についてもチェックしてみてくださいね。

スポンサードリンク

他にもあるぞ!超人気家紋コンテンツ
「苗字から家紋」の画像検索結果 「10大家紋」の画像検索結果
「戦国武将家紋まとめ」の画像検索結果
関連画像